THE 有頂天ホテル


 こういうオールスターキャストの映画の場合、短編をつなぎ合わせたようなまとまりのない映画になりがちなのだが、この映画は一本の映画を見たという充実感を観客に与えてくれる。俳優たちそれぞれにちゃんと見せ場があり、しかもそれらがお互いに結びついていて、切れ目を感じさせない。ひとつの空間の手前、奥、右、左で登場人物たちの小さなドラマが同時進行していて、三谷幸喜監督はできるだけカットを割らずに移動カメラで巧みに各エピソードを拾い上げていく。ベルボーイ(香取慎吾)の演奏場面のように、ひとつのエピソードがすぐ隣で展開している別のエピソードに影響を与える。そして支配人からアヒルまで、登場人物たちが常にホテル内を移動しているので、各エピソードの組み合わせパターンは非常に多様であり、ベルボーイの持っていた人形の動きが示しているように、すべてはどこかでつながっている。
 大晦日の夜、従業員と宿泊客たちはいつもとは少し違う役割を果たすことになり、それが笑いを生み出す。この役割のずれを演出するのに、三谷監督は服装や小道具を巧みに使っている。スチュワーデスの衣装は小原なおみ(麻生久美子)のところに、小原なおみの毛皮のコートと宝石は客室係の竹本ハナ(松たか子)のところに、マジシャン(寺島進)がつけるはずのどうらんは総支配人(伊東四郎)の顔に、堀田(角野卓造)がかぶるはずの鹿のかぶりものは副支配人(役所広司)の頭に、コールガールヨーコ(篠原涼子)のコートとかつらは歌手桜チェリー(YOU)のところに、マジシャンのアシスタントが着るはずの衣装は桜チェリー、そのあと芸能プロ社長赤丸寿一(唐沢寿明)のところに、ベルボーイのバンダナはアシスタントマネージャー矢部(戸田恵子)を通してアヒルのダブダブのところに、ベルボーイの衣装が代議士武藤田(佐藤浩市)のところに、客室係睦子(堀内敬子)のパンティはウェイター丹下(川平慈英)のところに・・・。垂れ幕の漢字間違い、灰皿と取り皿の取り違えから始まるこの映画は、ずれと間違いの連続である。
 このずれは混沌を生み出すだけではない。この大騒動を通して、何人かの登場人物は生まれ変わる。社長に押し付けられた役割を従順にこなしてきた桜は自分の衣装と歌で歌うジャズシンガーに、狭い部屋で地味な仕事をこなしてきた筆耕係右近(オダギリジョー)は自分の作品を生み出す書道家に、人生をあきらめていた代議士はしぶとく政界に生き残る政治家に、人目を恐れていた客室係ハナは他人の視線をはね返す強い女性に、愛人生活に疲れていた女性は自分の生き方に自信を取り戻した女性に、夢をあきらめていたベルボーイは再びプロを目指す歌手に、そして申し分ない仕事ぶりながら過去へのこだわりを捨てきれなかった副支配人は客に対する厳しさも併せ持った自信あふれるホテルマンに、新年を迎えて生まれ変わる。すべてのエピソードがきちっと時間内(21:50−24:00)に円満に終わりを迎える、巧みなストーリー展開がすばらしい。
 愛人、コールガール、元夫婦など、湿っぽい心理劇になりがちな要素を含みながら、まったくそういう方向に話をもっていかないところもいい。篠原涼子松たか子麻生久美子の三人は最後まで健康的で明るく、副支配人新堂の元妻(原田美枝子)とマネージャーの矢部が話す場面でも、嫉妬などの重苦しい空気はまったく漂わない。仕事の有能なサポート役に徹しながら、色気を前面にはださないがときおり新堂を慕っているところをみせる矢部を演じる戸田恵子が、見ていて気持ちよかった。こういう余裕のある働く大人の女性像がもっと他の映画にでてきてもいいと思う。

プライドと偏見


 一つの空間に複数の人間がいて、そこでそれぞれが自分なりの態度で生きている。そして時折それぞれの人生が交錯する瞬間があるのだが、冒頭のベネット家の描写や舞踏会の場面で、移動撮影によるカメラがその瞬間を捉えている。ほとんどの地主階級の独身女性たちがそうであったように、ベネット家の女性たちには家の相続権がなく、もし父親が死ねば居場所を失うことになる(「いつか晴れた日に」の主人公たちのように)。就職することはほとんどありえないので、彼女たちの運命は結婚相手の男性にゆだねられることになる。舞踏会のような出会いの場は彼女たちにとって残りの人生を決定してしまう場である。
 聡明なエリザベス(キーラ・ナイトレイ)には、妹たちのように下品に将校たちを追い掛け回すこともできないし、ビングリーの妹のように上品に男性にこびることもできない。また、親友のシャーロット(クローディ・ブレイクリー)のように結婚を経済的手段と割り切ることもできない。気質の合わない夫婦がどうなるかは、ベネット夫妻(ドナルド・サザーランド、ブレンダ・ブレッシン)を見て育った彼女にはよくわかっている。女性の行動範囲も限られている時代に、彼女のような聡明な女性が自尊心を保ちながら自分の居場所を見つけることは非常に難しい。映画では彼女が一人で考え込んでいるような場面もいくつか挿入されている。ダーシー(マシュー・マクファディン)のような社会的地位が高く無口な男性の前でも、キャサリン夫人(ジュディ・デンチ)のような気位の高い威圧的な女性の前でも、臆することなく振舞う時の、キーラ・ナイトレイの勝気な表情がすばらしい。
 舞踏会では他人に対する警戒心から表情を硬くしているダーシーが、後半徐々に優しい内面を見せていき、魅力的に見えてくるプロセスがすばらしい。エリザベスを意識してぎくしゃくしてしまうところもおかしいが、雨の降りこめる中でプロポーズを拒絶される場面での傷ついた表情が忘れられない。今までのダーシー役の俳優があまり見せなかったこのナイーブな傷つきやすさの表現が、この映画のダーシーの魅力だと思う。最後、余計な自意識を脱ぎ捨ててラフな格好で朝もやの中を現れた時の彼の姿はみずみずしい。
 ジェーン(ロザムンド・パイク)、エリザベス、リディア(ジェナ・マローン)、シャーロット・・・それぞれ結婚によって自分の場所を見つけた彼女たちはこの先どうなっていくのだろうか。オースティンの描く限られた条件の中で最善の選択肢を探す彼女たちの人生は、男性たちの戦いとは別の意味で、戦いの連続なのだ。
 

輪廻

輪廻 (角川ホラー文庫)
 主人公杉浦渚(優香)は映画女優であり、彼女は記憶というタイトルの映画撮影に参加している。過去の大量殺人事件に強い興味を持ち、過去の正確な再現に異常に執着する映画監督(椎名桔平)によって行われるこの映画撮影は、過去を現在に蘇らせる、そして前世の記憶を呼び起こすための儀式となってしまう。映画の現場にはカメラの後ろにいる監督の視点があり、被害者を演じる女優の視点がある。一方、過去の事件には加害者の視点から見た場面と被害者の視点から見た場面があるはずである。時々彼女の脳裏に蘇る前世の記憶が誰の視点のものなのかが、この映画のミステリーの中心点である。セットで作られた、方向感覚を失わせるような曲がり角の多いホテルの廊下が、視点を混乱させる役割を果たしている。
 この映画で彼女が体験する恐怖には二つある。一つは従来のホラー映画と同じように、身の回りで起こる不気味な現象や幽霊に脅える恐怖である。もちろん清水監督はうまく演出しているし、優香のおびえる演技もすばらしいが、この映画における恐怖はそれだけではない。
 後半、加害者が殺人を犯しながら撮影した8ミリビデオが出てくる。この映像を見て観客が感じるのは、殺人鬼に追いかけられる恐怖とは違う、もっと気味の悪い感触である。殺人鬼の一人称で見られた風景は8ミリの粗い画面によって私的な感じが強まり、そこに前半写っているくつろいだ雰囲気が一層後半の殺人を陰惨なものにしている。子供の前で普通の父親から殺人鬼へと変貌する彼の視点で、殺される時の恐怖にひきつった被害者の表情を見るのは、観客にとって気味の悪い体験である。殺される恐怖ではなく、殺されたものの恨みを感じる恐怖がここにはある。
 映画の後半に優香が感じる恐怖は、内に眠る前世の人格に彼女自身が気づいていくときの恐怖である。彼女が演じる少女の視点から見た風景に、この前世の記憶が重ねられるとき、もはや杉浦渚の人格が残る余地はない。だから終盤で彼女が見せる恐怖の表情は人格が崩壊して発狂していくものの表情であり、優香はそのプロセスを見事に演じている。

ロード・オブ・ウォー 史上最強の武器商人と呼ばれた男


 重いテーマについてナレーションを多く入れて説明する生真面目な映画だが、武器商人を演じるニコラス・ケイジのふてぶてしい取引場面が見ていて楽しい。彼はいかがわしい詐欺師的な面を持つ人間を演じるのが本当に上手い。船の船名をごまかしたりしてインターポールの監視の目をかいくぐる辺りは娯楽映画の楽しさもある。
 映画はしばしば犯罪を快楽的なゲームとして提示する場合があり、他の映画で詐欺師を演じたこともあるニコラス・ケイジの演技を見ていると、行っている犯罪(厳密には法の抜け穴を利用しているので犯罪ではないが)の深刻さを思わず忘れそうになる。ただ、この映画の場合、そういう側面をブラックユーモアにまで高めるのではなく、ニコラス・ケイジ本人がやっている皮肉な口調の回想的なナレーションで当時の国際情勢などを説明させて、真面目とユーモアのバランスをとっている。
 アメリカの労働者が作った銃弾がアフリカの少年を殺すにいたる流通経路を示した冒頭の場面や最後のテロップなど、この映画は監督(アンドリュー・ニコル)のメッセージを簡潔に伝えるという点では成功していると思う。ただ、一つ一つのエピソードの演出や、弟(ジャレッド・レト)や妻(ブリジッド・モイナハン)など主人公の周りにいる家族の心の動きはもう少し丁寧に描いたほうがよかったと思う。

キング・コング

キング・コング 通常版 [DVD]
  分かり合うことがほとんど不可能と思える二つの文明が接触する。ニューヨークから骸骨島に撮影に来たアメリカ人の撮影隊は、原住民と遭遇したとき、動物を手なずけるような態度で接しようとする。一方、原住民たちは彼らの中で一番美しい女優(ナオミ・ワッツ)を儀式の生贄とみなしている。相互理解という甘い期待の入り込む余地がない、弓と銃による殺し合いに発展するこの遭遇場面が異様に生々しい。
 生贄は原住民にとって自然と折り合いをつけるための手段である。なぜなら骸骨島の原始の自然は彼らが征服できるようなものではないからだ。島の中に入り込んだアメリカ人たちは銃で対抗しようとするが、次々と命を落としていく。巨大な恐竜から体にまとわりつく毒虫まで、島の原始の自然が人間たちを追い込んでいく描写がすばらしい。荒々しい原始の自然を最もよく体現しているのが、キングコングである。最初に登場する場面でのキングコングは獰猛な獣であり、その迫力には圧倒される。
 原住民たちと違って、近代文明からやって来たアメリカ人たちにとって原始の自然は恐怖の対象であっても畏怖の対象ではない。彼らはキングコングを捕獲し、見世物にすることを思いつく。これも自然の征服とみなすことができるだろう。自然に対して防御的な原住民と攻撃的なアメリカ人、どちらの方法にせよ、獣と人間の世界の間に和解などありえない。彼らは弓矢や銃を手放すことはできない。
 しかし、銃も弓矢も持たない元喜劇女優が、奇跡を起こす。人体を八つ裂きにするような気配を見せるキングコングの前で、彼女は踊る。彼女との交流でキングコングの表情は変化していく。獰猛な獣の中から知性と感情が徐々に現れてくる過程を、この映画は見事に演出している。ただ、この感情の芽生えを知っているのは彼女だけであり、それは結局銃の力によって摘み取られてしまうだろう。
 この物語は、一人の女性を二人の「男性」が愛する話でもある。繊細な細面の劇作家(エイドリアン・ブロディ)と、獰猛な野獣。劇作家との恋愛はそれほど丁寧に描かれているわけではないが、キングコングの悲劇性を強調する役割は十分果たしている。彼女は人間であり、劇作家が助けに来れば、一緒に野獣の元から逃げ出すことになる。一方、野獣は傷だらけになって彼女を他の獣から守り抜き、彼女を追ったために捕獲され、彼女と見た夕日の記憶に導かれて朝日の見えるビルに登ってしまい、やがて悲劇を迎える。だからこそ、最後の瞬間はアクション映画というよりも恋愛映画のような美しいスローモーションで演出されている。

SAYURI

SAYURIオフィシャル・ビジュアルブック
 貧しい漁村の家から姉妹が都に連れてこられるまでの過程で、彼女たちは息つく暇もなく馬車、汽車、また馬車へと移されていく。不気味なのは連れ去る男たちではなく、いったん作動したら止まらないこのシステムそのものである。貧困地域からゲイシャの置屋や売春宿に次々と少女たちを供給する、無駄のない効率的なシステム。いったんこの装置に吸い上げられたら、彼女たちは商品となる以外に道はない。一番高い値のつく商品、ゲイシャになることが、彼女たちの目標となる。連れ去られる時に通った暗い森と、千代(大後寿々花)が駆け抜ける赤い鳥居群は対照的である。赤い鳥居は彼女にとって今の生活からの出口を象徴しているのだが、彼女が賽銭箱の前でゲイシャになることと会長の側にいられることを願うとき、その二つの願い、ゲイシャと恋愛は両立しがたいことを彼女はまだ知らない。
 白塗りの顔、高い下駄、洗練された身のこなし、踊り、三味線・・・日常生活のにおいを感じさせない人工的に作り上げられたような女性になることが、ゲイシャには求められる。豆葉の指導で、下働きの少女千代からゲイシャさゆりになっていくプロセスは、この映画の見所になっている。人工的に表面を磨き上げれば、それだけその背後にある肉体を求める男性たちが増えていくことが、彼女の水揚げをめぐる駆け引きによく表れている。そして表面を磨き上げれば、それだけ彼女の私生活は磨り減ってなくなっていく。
 さゆり役のチャン・ツィイーの周りをかためる、この特殊な世界の女性たちを演じる女優たちがすばらしい。商売の世界を生き抜く置屋のおかみ役の桃井かおり、情念と嫉妬を感じさせる先輩ゲイシャ初桃役のコン・リー、さゆりから信頼される知性的な豆葉役のミッシェル・ヨーは、この映画の前半をすばらしいものにしている。
 一方、さゆりと二人の男性、会長(渡辺謙)と延(役所広司)との関係は、男性の心理や情念を表現する場面が少ないので、前半の女性同士のやりとりと比べるとやや物足りない印象を受ける。男性二人もオペラ座の怪人のように理性と情念と分けられるのかもしれないが(延の顔には傷がある)、それほどはっきりと区別がでていない。もちろんこれは二人が親友同士なので対立関係にならないことも関係しているのだろう。

*[映画] Mr.&Mrs. スミス
Mr.&Mrs.スミス プレミアム・エディション [DVD]
 アクション映画として目新しいところはほとんどない。金のかかった派手な銃撃戦や爆破、カーチェイスはあるが、それが緊迫感をもたらすわけではない。主人公二人(ブラッド・ピットアンジェリーナ・ジョリー)が組織に属する殺し屋であるという設定や組織との対立という筋はこの映画にとって重要なものではない。実際、対決するべき黒幕というのもほとんど画面には出てこないし、そういうアクション映画らしいストーリーを期待している人には物足りないかもしれない
 映画の見所は二人が夫婦のすれ違いをコミカルに演じているところだろう。映画の冒頭で出てくるカウンセリングの場面など妙にリアルで、二人が楽しんで演じているのがこちらにも伝わってくる。女性のほうが強気で男性がやや受身にまわるという二人の関係も、こういうコメディのパターンであり、二人によく合っている。殺し屋という特殊な設定ではあるが、すれ違いの原因は普通の夫婦やカップルにとって身近なものばかりである。妻は家の内装に熱心で、夫が口を出しても結局妻が自分の好みで決める。料理に関する好みの違い、これも妻の好みが優先される。そして、互いに秘密があり、なんとなく気づいているものの、相手に気兼ねして一歩踏み込むことができない。だから互いに銃を撃ち合い派手に殴りあうことは距離を縮めるための儀式のようなものであり、実際この撃ち合いはラブシーンへと移行する。映画の後半に二人で共同して敵と戦うようになっても、ちょっとした意見の相違や性格の違いが表面化するのだが、ここでの口げんかには前半の変な遠慮がなくて夫婦らしいものになっている。