SAYURI

SAYURIオフィシャル・ビジュアルブック
 貧しい漁村の家から姉妹が都に連れてこられるまでの過程で、彼女たちは息つく暇もなく馬車、汽車、また馬車へと移されていく。不気味なのは連れ去る男たちではなく、いったん作動したら止まらないこのシステムそのものである。貧困地域からゲイシャの置屋や売春宿に次々と少女たちを供給する、無駄のない効率的なシステム。いったんこの装置に吸い上げられたら、彼女たちは商品となる以外に道はない。一番高い値のつく商品、ゲイシャになることが、彼女たちの目標となる。連れ去られる時に通った暗い森と、千代(大後寿々花)が駆け抜ける赤い鳥居群は対照的である。赤い鳥居は彼女にとって今の生活からの出口を象徴しているのだが、彼女が賽銭箱の前でゲイシャになることと会長の側にいられることを願うとき、その二つの願い、ゲイシャと恋愛は両立しがたいことを彼女はまだ知らない。
 白塗りの顔、高い下駄、洗練された身のこなし、踊り、三味線・・・日常生活のにおいを感じさせない人工的に作り上げられたような女性になることが、ゲイシャには求められる。豆葉の指導で、下働きの少女千代からゲイシャさゆりになっていくプロセスは、この映画の見所になっている。人工的に表面を磨き上げれば、それだけその背後にある肉体を求める男性たちが増えていくことが、彼女の水揚げをめぐる駆け引きによく表れている。そして表面を磨き上げれば、それだけ彼女の私生活は磨り減ってなくなっていく。
 さゆり役のチャン・ツィイーの周りをかためる、この特殊な世界の女性たちを演じる女優たちがすばらしい。商売の世界を生き抜く置屋のおかみ役の桃井かおり、情念と嫉妬を感じさせる先輩ゲイシャ初桃役のコン・リー、さゆりから信頼される知性的な豆葉役のミッシェル・ヨーは、この映画の前半をすばらしいものにしている。
 一方、さゆりと二人の男性、会長(渡辺謙)と延(役所広司)との関係は、男性の心理や情念を表現する場面が少ないので、前半の女性同士のやりとりと比べるとやや物足りない印象を受ける。男性二人もオペラ座の怪人のように理性と情念と分けられるのかもしれないが(延の顔には傷がある)、それほどはっきりと区別がでていない。もちろんこれは二人が親友同士なので対立関係にならないことも関係しているのだろう。