ラブドガン

 やくざ、殺し屋、銃とくれば派手な活劇を想像してしまうが、この映画での銃は運動感を画面にもたらすというよりも、むしろ心理的な装置のように思える。暴力団のような「集団」は背景に退き、撃ち合いはほとんどの場合一対一の対決という静的な構図のなかで起こる。互いの物理的な距離感はトリッキーな撮影やスローモーションで打ち消され、弾丸には撃つ人間の感情が色として表れる。「おっちゃんの弾はあったかい」という撃たれた永瀬正敏のセリフにも表れているように、撃ちあう事は感情のやりとりでもある。永瀬が撃つときには、子供のころ両親が殺された後神経症になったときに飲み込んだ弾丸を吐き出すというトラウマ的行動も伴っている。
 主人公たちが銃を構えた時の活劇的興奮、トリッキーな撮影やちりばめられたギャグの「軽さ」、トラウマ的物語の「重さ」が入り混じった状態で映画は進んでいく。ここで宮崎あおいがもっぱら父の浮気、両親の死というトラウマ的物語の中にいるのがいささか残念な気がする。しかも、永瀬、岸部、新井の三人は一種の師弟関係、つまり擬似的な父子関係の物語を、ギャグの軽さや決闘という活劇に変換できるのに対して、彼女にはそのような活劇もギャグも用意されておらず、もっぱら心の傷をセリフで語るしかない。しかし彼女は冒頭、永瀬に銃を突きつけられてもひるまずに、「心臓撃ってよ」と強いまなざしで言ってのけるのだ。この表情を生かす活劇的場面がもう少しあればなあと思ってしまう。映画のラストショット、彼女が赤い銃をもって腕を突き上げる場面はすばらしく、ここで映画が終わるのではなく、トラウマ的な重さを振り払う活劇がもう少し続けばいいのにと思った。