エレファント

 私たちは主人公たち(複数で呼ぶべきでしょう)の歩行に寄り添う形で学校空間を何度も何度も辿り直します。その空間の持つ意味は生徒によって異なります。あるものにとっては写真を撮影し現像するというみずみずしい喜びを感じられる場所だし、あるものにとっては自分を見下した声が背後から聞こえてくる場所でもある。だから同じ場面(例えばジョンが写真のポーズを取る場面)でも異なる登場人物の視点から何度も体験しなおす必要があるのです。この歩行シーンの撮影はすばらしく、特に学校の廊下がよかったんですが、これは画面サイズが廊下にぴったりだからでしょうか。生徒、教師、事務員、清掃員など、学校空間全体を構成するあらゆる種類の人間がこの映画には登場します。他の映画がもっぱら教室内部を被写体に選ぶのに対して、この映画は学校空間全体を表象しています。ガス・ヴァン・サント監督にとってそれは必然的なことだったはずです、なぜなら学校全体の見取り図を持ってこの空間から人間を一掃することを目的にした少年たちを扱うからです。

 学校の空間を観客に感じさせるのに一番大きな役割を果たしているのは繊細な音響設計ではないでしょうか。一番印象的なのは事件を起こす少年が食堂で耳をふさぐシーンです。ここでは他の学生たちの話し声がアレックスを押しつぶしそうになります。これは単なる雑踏の騒音とは違います。学校というのは同年代の生徒たちが濃密な人間関係の網の目を形成していて、あの音響はその網の目が具現化したものです。そしてその網の目は彼を排除していて、その中に少年の居場所はありません。だから彼にとって呪わしいのはある特定のいじめっ子ではなく、この音響、この声の塊そのものです。この空間から「声」をすべて排除していくこと。実際、校舎の外で出会ったジョンには無頓着な彼らは、校舎の空間の中では一人の生存者も許さない態度で犯行におよびます。最後に誰の声も聞こえなくなり静かになったあの食堂で腰をおろすアレックスは、犯行の報告を喜んでする共犯者さえ撃ち殺すことになるでしょう、その報告する声を途中で断ち切るように。そして他の抹殺するべき「声」を求めて食堂の倉庫まで歩を進めることになります。ピアノを弾く音に繊細な少年が他者の声を抹殺するまでのプロセス、それはおそらく彼の声にほとんどだれも耳を傾けなかったプロセスと重なるはずです。

 観客がこの映画から受け取るのはもちろん事件についてのわかりやすい解説などではなく、雲がある場所から別の場所へと移動するある切り取られた時間の中で、彼らに寄り添って彼らを見つめること(わかった気になるのではなく)、学校空間のざわめきの中からささやきを聞き逃さないことを学ぶのだと思います。