エリ・エリ・レマ・サバクタニ


 何のために生きるのか、という問いは危険な問いである。目の前の目的(end)を見失ったとき、人は人生の最後にやってくるより大きなThe End(終わり)に捕まってしまう。自殺を誘発するレミング病にかかった宮粼あおいがどうせみんな最後には死ぬのに、なぜ今死んではいけないのか、と言うとき、彼女の父親(筒井康隆)のように〜のために生きてくれ、というような人生に目的を求めるような思考で説得することはできない。人生を「線」として捉え、これから先の未来に意味や目的を見つけようとすると、とたんに死の影に捉えられ、すべての目的endは死The Endの前に無効になってしまう。人生を死の地点から振り返って眺めること、人生を「線」として捉えること自体をやめることが必要なのだ。
 音楽もまた、時間に沿って進む以上、線として考えられる。私たちはメロディラインをたどるような音楽の聴き方に慣れている。しかし、浅野忠信中原昌也が作り出すのは「線」から解放された多種多様な音の響きであり、私たちは音の渦の中に身を置くことになる。板きれにひもを一本張っただけの手作りの原始的な楽器が、そして浅野忠信がもつギターの弦が、アンプにつながれることによって、五線譜から解放されたすさまじいノイズの渦を生み出す。線から渦を生み出し、線を無効にすること。これを可能にしているのは、スローライフ、アンプラグドのような退行的な自然志向ではなく、電子楽器とコンピューターである。採集された自然音もコンピューターに取り込まれ加工され、暴力的な音の渦へと変化する。宮粼あおいに必要なのは、先の未来に目的を見いだすことをいったんやめるために目隠しをして、音の渦の真ん中に身を置くことである。
 ただし、彼の演奏がレミング病を直す力があるかどうかは、あいまいなままになっている。むしろ、病気という問題とその解決という、論理的、線的思考が無効になっているというべきだろうか。レミング病による自殺と自由意志による自殺を区別する手段はない。そして、演奏場面の後には探偵(戸田昌宏)の自殺場面がある。ただ、この自殺には、意味や目的を求めたあげく絶望して(何故に我を見捨てたもうや)自殺するというような、暗く悲劇的な色彩はいっさいない。
 はじめから意味を求め絶望する病から自由な人もいる。岡田茉莉子が経営するレストランの壁にはたくさんの時計があるが、みんな違う時間を指している。時間、進歩、発展というという「線」から解放された場所がこのレストランであり、浅野と中原の憩いの場所になっている。彼女は死なんて考えたこともない、と笑ってみせるような、健康的な女性であり、今日うまくスープが作れたことに喜びを見いだす女性である。先回りして死の地点からすべてを見るのではなく、いまここにいることの喜びに身をゆだねることを、岡田茉莉子は自然体で表現している。
 中原が死後も浅野の演奏を通して、また骨壺とともに備えられたモニターを通して「再生」するように、死はすべての意味を決める最終地点ではなく、私たちはそこから自由に回帰することができる。これほど人生に対して肯定的な気持ちになれる映画はあまりない。