ミュンヘン


 アヴナー(エリック・バナ)が情報屋ルイ(マチュー・アマルリック)を待っている時、目の前のショーウインドウにはピカピカのシステムキッチンがある。ガラス一枚を隔てて目の前にあるのに、そこには決して超えられない距離があるように感じる。アブナーの母親は彼を一人で育てられないので農村共同体キブツに子供を預けた。それはいわば家庭から引き離され捨てられるという体験である。結婚して子供が生まれようというとき、今度は国からの命令で彼は家庭から引き離されることになる。共同体によって育てられた彼にとって国がゆりかごであり、今まで警護してきた女性首相(リン・コーエン)の言葉に彼は逆らうことができない。任務の途中で、いくつかの印象深い料理場面がある。母親に頼れなかったためか、彼は非常に料理が上手で、暗殺メンバーたち(ダニエル・クレイグキアラン・ハインズマチュー・カソヴィッツ、ハンス・シジュラー)にも料理を振舞うのだが、この家庭的な雰囲気は任務を重ねるごとにとげとげしいものに変わっていく。ルイに導かれて情報屋の黒幕パパ(ミシェル・ロンズデール)のところに行くと、そこには自然に囲まれた大家族の食卓がある。牧歌的な食卓は血なまぐさい情報のやりとりによって支えられており、どの政府にも所属しないことで自分たちの居場所を確保している彼らは、自分たちを守るためなら今歓待しているアブナーの情報さえ売るだろう。爆弾を恐れてベッドに腰を下ろすことさえできない彼には安住できる場所がない。ニューヨークの妻(アイェレット・ゾラー)のもとに戻っても、命を狙われる恐怖から逃れることはできない。政府のさらなる命令を断った彼にとって、敵は自国の政府かもしれないのだから。
 皮肉なことに、標的となるパレスチナ人は、まさに自分たちの居場所を確保するためにテロ行為を行っている。たまたま同室になったパレスチナの若いテロリスト、あるいは暗殺される直前にバルコニーで言葉を交わすパレスチナ人、どちらの場面も政治がなければ共存できる可能性を感じさせる場面なのだが、政治と民族意識がそれを許さない。
 暗殺とは自分の存在を知られることなく殺害することだが、彼らはもともとその道のプロではない。だからこそ、危なっかしい手作りの爆弾や最初に殺す場面の手の震えなど、暗殺場面には他のスパイ映画にはない緊張感がみなぎっている。また、最初は躊躇を感じていた彼らが、仲間の殺しに関わった女性を殺す場面では、命乞いする相手の前で無表情に武器を組み立てる。自分の子供の声を聞いて涙を流していた男のこの変わりようが不気味である。また、不可視の存在であったはずの彼らが敵に命を狙われ始めるときの緊張感もすさまじい。周りのあらゆる視線、あらゆる物が殺意を帯びているように思えるのだ。
 任務の発端となるミュンヘンオリンピックのテロは映画の冒頭に出てくるが、殺害場面はそこでは出てこない。虐殺場面はアブナーの意識に刷り込まれた映像としてフラッシュバックで出てくる。自分たちは狙われているというこの刷り込まれた恐怖感が非人間的な任務遂行を支えている。もちろん、このような強迫観念から逃れることは難しいことを私たちは知っている。私たち日本人もまた、この強迫観念に苦しんでいるのだから。