この胸いっぱいの愛を

この胸いっぱいの愛を [DVD]
 通常のタイムスリップものと違って、彼らは現在に戻るために必死になるとか、将来の自分のために奮闘するわけではない。彼らがタイムスリップする原因となっている後悔、思い残したこととは、愛していた、あるいは好意をもっていた者に関係しており、彼らが過去でやるべきことは、愛していたことを伝えることと、愛されていたことを知ることの二つに集約される。
 眼の見えない老婦人(倍賞千恵子)にとって、年老いて引退した盲導犬に感謝と愛情を伝えることこそ、人生でやり残したことであり、彼女はタイムスリップした過去でそれを実行する。そして、声だけで昔の主人を認識して駆け寄ってくる盲導犬は、今でも主人を愛していることを彼女に伝えている。
 愛情に恵まれずに育った若いやくざの布川(勝地涼)にとって、母親(臼田あさ美)の出産の真相を知ることが過去でやるべきこととなる。そこで彼が知るのは、自分が強く愛されていたということであり、そこで彼がすることは、孤立無援で出産に臨もうとする彼女に感謝の念を伝えることである。 感謝の言葉を伝えた後背を向けて去っていく勝地涼とそれを見つめる臼田あさ美の別れの場面は、この映画の中で最も感動的な場面になっている。
 あまり目立たず影の薄い臼井(宮藤官九郎)は、学生時代にしてしまった優しい隣人(中村勘三郎)への行為を後悔している。過去に戻った彼が知るのは、この隣人が彼のことをうらむどころか逆に気遣っていたことである。当時は知る由もなかったことだが、自分は他人の記憶になど残らないと思っていた彼にとって、この隣人の一言は大きな意味がある。
 過去に戻ったヒロ(伊藤英明)の物語の中で、前半部分の中心になっているのは小学生のヒロ(富岡涼)との関係である。親から離れて暮らし、友達もいない子供のヒロは、大人のヒロを最初「お前」と呼んで警戒しているが、やがて「お兄ちゃん」と呼ぶようになる。恋愛ものを期待していた客にとっては退屈だったかもしれないが、同じしぐさの二人が並んでいる場面は微笑ましい。孤独な少年を孤独から救い、かつての自分とはまた違う人生を歩ませることが、彼の役割となる。
 後半部分はヒロと和美(ミムラ)の関係が中心となる。死を前にした感情の揺れを隠すことなく表に出す和美を、今まではおとなしい役の多かったミムラが好演している。二人の関係は結婚へと向かっていくような通常の恋愛関係ではないが、和美から苛立ちをぶつけられ、睨まれ、ののしられてもひたすら相手の命を救おうとするヒロの熱意が、二人の関係を支えている。周りの人たちから愛されていることに気づかせることが、彼の役割となる。後部座席で泣く和美に、運転席のヒロが背中を向けたまま自分の思いを伝える場面は、後の抱擁場面よりも、結びつくことはない二人の関係をよく表現していて、すばらしい。
 命を救われた和美を待っているのは、決してバラ色の生活ではない。部屋で落としたみかんを拾う彼女には、生活の疲れさえ感じられるのだが、しかしその生活はそこにはもういないヒロの存在によって支えられている。