妖怪大戦争

妖怪大戦争 DTSスペシャル・エディション (初回限定生産) [DVD]
 ポスターや宣伝を見た人は、悪と戦いながらひと夏の間に少年が成長するという、夏休み映画らしいストーリーを想像するだろう。RPGの主人公のようにかっこいいコスチュームを着て剣を構えた主人公を見れば、妖怪の助けを借りながら戦いを勝ち抜いて戦闘力を高め、最後にラスボスを倒すという分かりやすいテレビゲームの世界を期待する人も多いだろう。確かに主人公タダシ役の美少年神木隆之介と、悪のボスである加藤憲保役の豊川悦司やアギ役の栗山千明(色気のある眼差しと長い手足を生かしたシャープな動きで悪女を熱演している)との対決がストーリーのクライマックスになっている。
 ところが、この映画は善と悪の対決、つまり「大戦争」という枠組みを徹底的にはぐらかしていくのだ。まず、仲間が捕まっているにも関わらず、妖怪たちに戦う気が全くない。彼らにとって良い戦争も悪い戦争もなく、彼らは戦争の原理そのものに全く向いていない。妖怪の中には人間の命を奪うものもいるが、それはあるストーリーを前提にしているので、戦場で効率よく敵を殺していく近代兵器(敵の機怪は兵器に近い)とは違う。それにのっぺらぼうや傘お化けに破壊力などあるはずもない。どんな職種の人間でも「兵士」にされてしまう戦争の原理に反して、彼らは自分自身であることを手放したりはしない。妖怪会議での彼らの笑える言い訳(傘お化けの「だって俺傘だし・・」、雪女の「今の季節はちょっと・・」など)はそれを表している。
 主人公が悪を倒すはずのクライマックスもはぐらかされる。妖怪たちが集まってくるのは「戦争」のためではなく「祭り」のためだ。友人を失った怒りで敵を倒すというストーリーは、復讐は人間の原理だという川姫(高橋真唯)の言葉で否定される。それに最初から主人公の剣はそれほど役に立たないし、加藤には全く通用しない。主人公と悪が対決するという構図に、三池崇史監督は異物を導入して、その構図を無化してしまう。小豆洗い(岡村隆史)や妖怪雑誌編集部の佐田(宮迫博之)のような全く戦う気のない脇役によって、事態はあっさり解決する。
 そして成長物語の枠組み自体が、相手に配慮した嘘をつくことと、成長したタダシ(もう妖怪が見えない)の姿を映すことで無効になっている。むしろあまり成長していないというか、いまだに妖怪に惹かれている佐田のような大人が妖怪を見ることができるのだ。