アイランド

 車がひっくり返ったりやたらと物が壊れたりするアクションシーンはいままでのマイケル・ベイ監督の映画とあまり変わらない。面白いのは臓器移植をテーマにした脚本のアイデアである。
 我々が相反する二つの欲望を抱えながら生きていることをこの物語は観客に気づかせて暮れる。施設内でのクローンたちの生活は極端な健康・清潔志向であり、体調の変化を徹底的に管理されている。上下白い服を着た彼らの姿は我々の健康志向の行き着く先を暗示している。一方、「本物」たちは都会の消費生活の快楽を享受している。例えば「本物」のリンカーンユアン・マクレガー)は酒とセックスで肝臓を病んでいるが、クローンのリンカーンはもちろん極めて健康で酒どころか肉もほとんど食べられずセックスも禁止されている。「本物」のジョーダンは成功したモデルであり母でもあるのだが、クローンのジョーダン(スカーレット・ヨンハンソン)は他者と直接触れあうことを禁止され、子供を見たことがない。できるだけ長生きしたいという健康志向と快楽を追い求める欲望は両立しがたいのだが、映画の舞台となっている近未来では医学の進歩と経済力がそれを可能にしている。
 もう一つ観客が気づくのは臓器を提供する側と受け取る側の不均等である。クローンたちは実質的に高度に管理された奴隷・家畜にすぎない。企業が雇った黒人傭兵(ジャイモン・フンスー)の存在がクローンと奴隷制度をつないでいる。一方「本物」たちはみな社会で成功した富裕層である。これは現代社会に存在する臓器売買の闇マーケットを思い出させる。そこでは提供者は奴隷ではないが生活のために自分の、あるいは家族の臓器を売り、そして富裕層がその臓器で長生きするのだ。
 この映画は別に脳死代理母など医療の最新技術がもたらした問題を深刻に考えるような映画ではない。しかし病人が救われたという美談が報道で伝えられるとき、その前の段階、つまり生温かい肉体から臓器が取り出される手術室内部を想像してみるきっかけにはなるかもしれない。施設内に並べられた、人工的な羊水に浸されたクローンたちの映像は映画を見終わった後も生々しい感触を観客に残すだろう。