姑獲鳥の夏

 現実認識の脆さに関する京極堂堤真一)の長い薀蓄から始まるこの映画は、関口巽永瀬正敏)が現実感覚を失っていく様子を、かなり特殊な演出方法で表現しようとしている。画面を斜めにしたり逆さにしたり回したり、特殊なレンズで撮影したりしていて、ある程度効果を挙げている場面もある。姑獲鳥の絵を影絵のように映し出す演出も悪くない。ただ疑問に残るのは演劇風の照明、特にスポットライトの多用である。確かな現実感を失い自分の背後に広がる闇にまやかしの世界が広がっているように感じて眩暈を覚える関口に必要なのは、演劇用のスポットライトの背後でベタっとつぶれてしまったただの黒い背景ではなく、微小な光でも捉えられる映画フィルムによって写される生々しい「闇」なのではないか。そして妖怪が棲むのはそのような闇のはずである。あと、せめてスクリーンで大写しになる顔には繊細な照明を当ててほしい。普通に撮られた場面を見ると女性の顔はかなり美しく撮られている(原田知世、関口の妻役の篠原涼子、京極道の妹役の田中麗奈)ので、余計に残念である。また、上で挙げたような特殊な演出が謎解きの前、最中、後でほとんど同じように使われていて、認識の歪みが憑き物落としで是正されていくプロセスを表現するのにあまり役に立っていない。
 京極夏彦原作の謎解き場面の魅力は密室や犯人の意外性などにあるわけではない。それは美しい人形のようで肉体を感じさせない久遠寺涼子の中に潜んでいた複雑な人格構成と欲望があらわになっていくプロセスであり、久遠寺の女性たちの肉体に重くのしかかっている、伝統的な因習や妖怪の形をとって現れる人々の母性に対する賞賛と恐れ(姑獲鳥は子供を奪う/預ける、鬼子母神は他人の子供を喰う/自分の子供を愛するという二重性を帯びている)、現代社会の風聞、現代科学のもたらす生殖、性的異常者の性的ファンタスムなど様々な幻想や思想のメカニズムを解明していくプロセスでもあり、関口が自分の無意識に抑圧されている記憶を取り戻し、露呈される現実と向かい合うプロセスでもある。タイトルが示すように、特に女性の肉体と無意識に抑圧されている欲望が謎解きの中心にある。
 映画の謎解きがつまらないのは、事件を説明するやり方の拙さ(原作を読んでいない人は事件の全体像をつかむのに苦労するだろう)と、上であげたような要素が露呈されていくというプロセスがないからだろう。原田知世は温室の場面では特に美しく撮られているのだが、彼女が変貌して奥に眠っている要素があらわになっていくプロセスがスクリーン上でほとんど感じられない。母親役のいしだあゆみにある程度エキセントリックな表現を任しているが、それでは一人の女性の変貌を表現したことにはならない。最後まで肉体を感じさせないイメージのままでは、タイトル(姑獲鳥=産女)が示す出産のイメージと密接に結びついている、性と肉体が浮かび上がってこない。涼子にせよ梗子にせよ、心理のダイナミックな変化を表すには石を振り下ろす動作や男性を誘うしぐさなど、性や暴力と結びつく場面の描写はある程度必要だろう。