宇宙戦争

 戦争という言葉から、兵士たちが二つの陣営に分かれて撃ち合うゲーム的な戦争をイメージする人が多いだろう。観客はどちらかに感情移入し、自分の攻撃衝動を満たす。しかし、ここで描かれているのは、そのような戦闘の脇で右往左往し、破壊と殺戮から逃れようとする避難民たちである。彼らは破壊に対して常に徹底的に受動的な立場に立たされる。主人公のレイ(トム・クルーズ)もそのような避難民のうちの一人である。そしてこのスケールの大きな物語は、元々亀裂を生じていた父子の旅という限定された視点から捉えられる。
 人間に自分の無力を感じさせるこの受動性を強めるために、スピルバーグはこの戦争に様々な災害のイメージのコラージュを付け加えている。宇宙人が登場する前に現れる黒雲は、竜巻や台風を想起させる。マシーンが登場する前の地面の亀裂や建物の崩壊は大地震を想起させる。あと、飛行機、船、列車の事故が加えられる。そういう災害の中で、人間は立ち向かって戦うことなどできない。運に恵まれた少数のものだけがなんとか破壊を逃れ生存できる。
 「シンドラーのリスト」の監督でもあるスピルバーグは、この戦争を駆除と言い換える。人間は一瞬で白い灰にされ、衣服の断片がまるで焼却炉の煙突から出てきたかのように空から降り注ぐ。あるいは、まるで人体実験のように植物の肥料?として地面に血のシャワーとして散布される。地下室でレイと娘のレイチェル(ダコタ・ファニング)が聞くトライポッドの足音は、まるで行進する軍靴の音のように一定のリズムを刻んでいる。レイチェルの目の前で大量の死体が川を流れていく。かつて一部の民族が体験したことを、今度は人類全体が体験することになる。
 軍隊による反撃も少しは描かれているものの、レイはその攻撃には加わらない。彼は娘を生存させるための戦いを選び、人類という集団のために戦うという息子ロビー(ジャスティン・チャットウィン)と袂を分かつ。地下室では、やり返し、復讐するという論理を説くオグルビー(ティム・ロビンス)と対立する。レイチェルに自分が父になってやってもいいなどとささやき、銃を手放さないオグルビーと、不器用に子守唄を歌って娘を慰めようとするレイの対立は、父性にふさわしいものは何なのかをめぐる対立でもある。宇宙人に殺されるという恐怖から精神に異常をきたすオグルビーは、実はレイよりも弱い人間である。銃はこの映画では大して威力を発揮しないばかりか、むしろ主人公の生存を脅かす。パニックに陥った群衆の中で、レイが持っていた銃は宇宙人を殺すために使われるのではない。地下室でもオグルビーの銃はむしろ彼らの生存を危ういものにする。
 生存のための戦いに善と悪、敵と味方の明確な境界線はなく、戦争の大義も存在しない。自分の生存のために他の避難民を時として切り捨てるべきなのかどうかということはどの場面にも言えることである。この問題に関して、レイは地下室で究極の決断を迫られる。娘の生存のために彼が下す決断は正義なのか。決断を下した彼の姿が逆光で捉えられ、黒く浮かび上がる。彼の行為を赦していることを、娘は彼の腕を自分に巻きつけることで表す。パニックになった群集からの脱出場面と同じように、レイが娘のために戦う相手は宇宙人だけではない。幼い娘にとって、宇宙人に襲われる恐怖と群集に襲われる恐怖にどんな違いがあるだろうか。
 一方に殺戮から逃れようとする父子の行動があり、他方に着々と地上を支配していく宇宙人の行動がある。父子が徹底的に受動的な立場に追い込まれているのに対して、宇宙人は強大な軍事力で圧倒し地面を赤い草で覆いすべてを意のままにできる全能的な立場に立っているように見える。宇宙人がたどる結末は原作を読んでいる人なら知っているのだが、興味深いのは赤い草が白い灰になってしまうことだ。生きているものがすべて塵や灰に還るという考えは、冒頭と最後の語りが示すように生物学的な視点だが、同時に旧約聖書的な視点でもある(塵から出て塵に還る)。つまりこの映画は一家族の旅という一人称的視点と、どんな地上の支配者も塵に還してしまう人智を超えた世界の働きという超越的な視点を組み合わせて構成されている。