電車男

 原作の主人公のイメージを忠実に再現するのではなくて、世間が抱いている典型的なオタクのイメージに近いルックスで主人公は登場する。オタク特有の行動や失敗談が笑いのネタになっているのだが、それ自体は特に目新しいものではない。山田孝之が前半と後半で変化するコスチュームの中で一貫して見事に表現していたのは、主人公のもつある種の善良さと他者への極端な怯えである。
 電車男が小学生の女の子に落とした定期券を拾ってあげ、相手の反応に戸惑い逃げ出すとき、そこには他者に優しくあろうという気持ちと、他者から見た自分はおぞましいのだという意識が両方見られる。電車で酔っ払いが暴れる場面では、彼は最初ipodのボリュームを上げ、現実との間に膜を作り自分を守ろうとする。しかし同時に、彼は酔っ払いに脅されている女性客を放っておくことができない。さらに、映画では電車に乗り込んできたエルメスに眼を奪われる場面が先に挿入されていて、これが、彼が膜を破って現実の中に飛び出していくきっかけにもなっている。エルメスの会社に行く場面でも、彼の持参したパンフレットは彼が他者に無償で尽くすことのできる人間であることを示しているのだが、同時に彼はエルメスの同僚のエリートたちの視線に耐えることができない。告白の場面でも、モニタに写った自分自身の姿を見て、彼は逃げ出したくなる。なぜなら他者の軽蔑的な視線を彼は内面化してしまっているから。
 直接視線が交わることのない掲示板の住人からの応援(もちろん、編集された原作本とは違い実際の掲示板上では中傷や嘲笑も飛び交うものなのだが)は原作でもラブストーリーそのものと同じくらいの重要性をもっているのだが、映画では分割画面でスレの住人たち(ただし、主に独身男の集まるスレという設定は映画ではない)の電車男への反応を描いている。線路を挟んで向かい合う電車男と住人たちのイメージシーンでは、彼らがある意味現実世界の友人たちといる時よりも気安く内面を吐露しあいながら(掲示板上で電車男の使う多彩な顔文字、そして「俺」という一人称と、彼の現実世界での緊張でこわばった顔、そして時々どもりながらの「僕」という一人称の対照性)、しかしネット空間で絶対的に隔てられているという、奇妙な関係がうまく視覚化されている。それぞれの外見の違いが顔文字という共通の記号に置き換えられることは、電車男のような人間にとっては救いなのかもしれない。
 男性側の書き込みから成る原作からエルメスの断片的なセリフを寄せ集めても、具体的なエルメス像を作り上げることは難しい。だからといってエルメスを生活感のある女性として肉付けしすぎると、二人のストーリーの持つおとぎ話のような性質が失われてしまう。しかし他者の攻撃的、軽蔑的な視線を恐れる主人公の前で、相手を全面的に受け入れる柔らかい視線を保ち続けるエルメス中谷美紀がうまく演じている。原作よりも二人の間に年齢差が感じられるので、デートや告白の場面のセリフをある程度自然に受け入れやすい。告白の場面は、年齢差のあるこの二人でなければ成立しない場面だと思う。