オペレッタ狸御殿

 互いに相容れない二つの陣営(人と狸)の姫と若君の恋というと、ロミオとジュリエットのようなパターンを想像する人が多いだろう。相対する二つの力が直線的に激突し、二人の恋は引き裂かれるという、古典的なパターン。しかし鈴木清順監督にとって、陣営を隔てる境界線などあっさり放棄されるものに過ぎない。雨千代(オダギリジョー)と狸姫(チャン・ツィイー)が乗った小船が渦巻きに巻き込まれくるくる回っているうちに、雨千代が狸を名乗り、狸姫が人間を名乗り、円運動が直線で引かれた境界線を無化してしまう。狸御殿の狸たちは毎日くるくる回って踊り、御殿の家紋は円の中に曲線で狸が描かれている。本来対立する側にいるはずの雨千代は、この円運動に巻き込まれていくことになる。この円運動が最高潮に達するのが、雨千代と狸姫が「恋する炭酸水」をくるくる回りながら歌い踊るシーンだろう。重力という垂直に働く力から解き放たれたようなCG画面の中で、彼らが歌う歌も楽天的な軽さに満ちている(ソーダ水、レモン色、透き通った心、イチゴ色・・)。
 がらさ城の城主安土桃山(平幹二郎)だけが、この映画で最後まで直線的なイメージを保ち続ける。彼が求めるのはこの世で「一番」美しいことであり、常に垂直に上昇しようとする意思を持ち続けている。がらさ城の造型にもそれが表れていて、狸「御殿」の水平に広がる空間とは対照的だ。上昇志向は下降することへの不安と表裏一体であり、だからこそ彼は息子の雨千代さえ殺害しなければ気がすまない。だが、彼の周りにいるものたちは次々に円運動のほうへ引き寄せられていく。父に対抗する力など与えられていない雨千代は、父と子の対決という古典的なパターンから抜け出し、狸たちの世界に巻き込まれていく。手下の駝鳥道士(山本太郎)は狸に間違われてつかまるが、最初の登場場面での彼の円形にそり上げた頭頂部のアップがすでにそのことを予告しているとも言える。安土桃山といっしょに悪事を考えてきたびるぜん(由紀さおり)まで、狸のお萩(薬師丸ひろ子)との対決の後に、円形の花火として華やかに散っていく。
 安土と恋する二人が砂浜で対決する場面で、まっすぐにのびる海岸線をみて観客は悲劇が起こるのではないかという不吉な予感を抱く。直線上で対決するというのは、狸にふさわしい身振りではないからだ。やはり、安土の鋭く長い刀で狸姫は重傷を負うことになる。しかしこれはオペラではなくオペレッタである。重傷を負った狸姫は円形の車輪の上で緩やかに回りながら回復を待つことになる。雨千代が父に切られる場面でも、切られたあと彼の体はブランコのような乗り物に置かれ、振り子運動で揺れている。彼らを回復させるのは、狸と同じく曲線的な体の極楽蛙であり、観音様のような光の女人(美空ひばりのCG)も楕円形のまばゆい光の中に現れる。曲線や円が恋する二人を悲劇から救い続ける。そしてもちろん、オペレッタはハッピーエンドを迎え、二人は満月のなかで微笑み、キスをする。なんと幸福感あふれる映画だろうか。対立や上昇といった直線的な運動から身を引き離し、狸たちの楽天的な円運動に、我々も身を任せてみたい。