ミリオンダラー・ベイビー

 ジムの片隅で夜になっても一人で黙々とサンドバッグを打ち続けるマギー(ヒラリー・スワンク)には、前向きに生きる強い意志が全身から感じられる。そしてそれは映画の最後までそうなのだということを強調しておきたい。精神的に堕落した家族から離れて一人で生きることも、ボクシングを選ぶことも、ベッド脇に集まってきた家族のあさましい要求を拒否することも、彼女自身の尊厳を守るために選んだ生き方だった。「ホワイト・トラッシュ」(白人の貧困層)として生まれ育ち、あのような家庭環境と経済環境の中でまっすぐに生きるためには、強い意志の力が必要である。そして最後の決断も、自分の意思で彼女が選んだ「生き方」なのだと思う。もちろんそれは「彼女」の生き方であってあらゆる人にあてはまるわけではないことは、言うまでもない。
 スクラップ(モーガン・フリーマン、彼のナレーションがこの映画のトーンを支えている)やフランキー(クリント・イーストウッド)が結局彼女を教えることになるのは、サンドバッグを叩き続ける、陰影を帯びた彼女の姿になにかを感じ取ったからだろう。フランキーがマギーを受け入れていくプロセスがすばらしい。マギーは初めから相手を全面的に信頼している顔なのだが、フランキーの表情はこわばった拒否の表情から、娘を見るような優しい表情に変わっていく。(ちなみにパンフレットにはクリントに演技指導を受けているヒラリーの姿が載っていて、マギーとほとんど変わらない全面的に相手を信頼している表情を浮かべている。)
 毎日カトリック教会に通うアイリッシュのフランキーにとって、最後の決断は我々が想像する以上の重みを持っている。それは単に社会全体から批判されたり罰せられたりすることのみを意味するのではない。教会の教えから背を向けることは、精神的な拠り所を失い地獄行きを選ぶことにほとんど等しいことのはずだ。病院の廊下を歩いて立ち去る彼の寡黙な後姿は、マギーのためにそのような重荷を独りで永遠に背負うことを決めた男の決意がこめられている。
 リングの上にはまぶしい光が当てられていて、そこでは勝者の栄光だけでなく敗者の姿も容赦なくさらされる。マギーの家族の醜い姿があらわになるのも昼間の光の中であり、それに対して薄暗い控え室やジム、深夜のドライブ中の車内のほうが暖かく、フランキーとマギーの交流も主にそこが舞台になる。陰影というものがいかに人の顔に尊厳を与えるのかということを、イーストウッド監督の映画はいつも教えてくれる。最後の決断もまた明かりを消した夜の病室の中であり、ここでの二人の表情とくちづけには胸が熱くなった。