真夜中の弥次さん喜多さん

 江戸から伊勢に向かう道程を、ぺらぺらした紙のような現実の狂騒から死の領域まで自在に行き来しながら描くしりあがり寿の傑作漫画の映画化。監督は宮藤官九郎。豪華な脇役を使ったギャグ(松尾スズキ古田新太の使い方はかなり笑えた)の連続と主役二人(長瀬智也中村七之助、眉のくっきりした弥次さん、アル中で線の細い喜多さんという原作のイメージに近い)の躍動感あふれる動きで、前半から中盤まではかなり楽しい。原作者のコメントにもあったが、若い二人のもたらす勢いが原作とはまた違った魅力をこの映画にもたらしている。もちろんそれは二人の躍動感を生かした演出をした監督の手腕でもある。
 問題はこの若さと勢いでタイトルにある「真夜中」、つまり死の領域が描けるのかということだろう。監督は三途の川近辺と喜多さんの幻想場面をCGを使いながら交互に見せている。ここでもいくつかギャグは織り交ぜられているのだがテーマの重さを処理し切れていないような印象で、原作を読んでいると物足りなく感じる場面かもしれない。線の細い、重力を感じさせないような絵で生と死、肉体と精神の間を漂う原作と比べると、CGはあまりに具体的過ぎる感じがする。
 紙のようにペラペラな現実から離れてリアルを求める二人が、死とすれすれの所にある生の感触を求めて死の領域に近づくのは必然といえるだろう。この映画では主な殺人場面が二つあり、二人の賑やかな旅は二つの死に挟まれているのだが、リアルな生々しさを出すことに成功しているのは白黒画面で弥次さんの妻お初(小池栄子)が死ぬ場面のほうではないか。映画の冒頭に響く、お初が米を研ぐ音の繰り返しには、嘔吐感を伴うような、ざらついた現実の感触がある。そしてお初が死んでいく場面の、小池栄子の眼の鈍い光の中には、どんなCGでも描写できない「真夜中」が宿っている。