またの日の知華

 原一男監督初の劇映画。「堕ちていく女性の一生」と要約できる物語の中で描写されている、観念的な女性像に対する違和感を最後まで持ちながら見た。堕ちていく過程をよりドラマチックにするために、少女時代の知華を、不幸の影を負っているが「まだ汚れのない美しい少女」というようなイメージ(体操競技用レオタードを着て浜辺で踊っていたりする)で描いていて、これが後の堕ちていく人生との対比で何度も登場する。この映像にどうしても古さを感じるのだが、それは物語の時代設定の問題ではないだろう。情念を表すのに波の音とか祭りの火が使われるのも、一昔前の小説のような印象をもってしまう。さらに、競技会で「落下」したことをきっかけに体操競技から離れていくという設定で、これが「堕ちる」ことの比喩になっているのだが、これも文学ならともかく映画で律儀に映像化されるとちょっとつらい。やはり映画なら落ちるという観念ではなく落ちるという運動そのものを見たい。性と死の関係について生硬なセリフでしゃべってから(セックスとタナトスという、今や使い古された感じがする観念・・・)セックスするとか、監督と脚本家が抱いている観念が登場人物についてまわるのも見ていてもどかしかった。監督にも完全にはコントロールできない破天荒な他者の言動の記録であった一連のドキュメンタリー群は、こういう観念を蹴散らす力を持っていたと思うのだが・・・。(桃井かおりは撮影中監督に、ドキュメンタリーでは破天荒なのに、なんで今回生真面目なやり方で演出するのか、と詰め寄ったそうだ。)
 吉本多香美は、何度か観念的なセリフで内に秘めた情念を「説明」しているが、それよりもクローズアップで捉えられた彼女の表情のほうが、はるかに雄弁だと思う。もちろんそれは渡辺真起子(堕ちていくきっかけとなるパートで、最も不幸の影を色濃く出している)、金久美子(生活に疲れながらも、年下の男性から見て魅力的に見える、包容力のある女性を演じている)、桃井かおり(堕ちていく最後のパートをすばらしい存在感で締めている)のパートにも当てはまる。彼女たちはそれぞれ独自の存在感で、堕ちていく女性像に生々しさを与えている。
 この映画でよかったのは、脚本上では堕ちていく「一人」の女性として描かれている知華を、複数の女優が演じていることだろう。観客にとっての知華像は、一つのイメージに収束することなく、複数の状態のままだ。主人公のイメージを「純粋」とか「堕落」といった観念によって統一するのではなく、複数の個性的女優たちが表す複数性をもっと押し広げたほうがよかったのかもしれない。そのためには男性側の描写ももう少し必要だと思う。結局、知華とは、それぞれのパートで登場した男性たちが自分の女性像を投射する鏡のような存在でもあり、最後に登場する成長した彼女の息子は、母のイメージの不完全な断片を抱えて生きていくことになるのだろう。桃井かおりが水面に浮かぶのは、鏡としての女性にふさわしい姿なのかもしれない。