エターナル・サンシャイン

 いつもは文芸映画などでヨーロッパの女性を演じることが多いケイト・ウィンスレットが髪を派手に染めた、衝動的に行動する女性クレメンタインを演じ、いつもはアドリブを交えて早口でしゃべりまくるジム・キャリーが自分について多くを語らない無口な男性ジョエルを演じている。このキャスティングが、いつもとは違う二人の新しい魅力を引き出している。
 彼女についての記憶を消していく過程で、消去に同意したはずの主人公が、脳内の記憶の世界で彼女の手をひいて消去から逃げ回るところは、まるでサスペンス映画のようだ。そして逃亡先として彼が彼女と共に向かうのは、無口な彼が現実の彼女には話したことのない幼少期の記憶である。そこにはいじめられたつらい記憶や恥ずかしい記憶と、美しい光景が同時に存在している。
 付き合っていた頃の彼らは、彼女がしゃべり、彼が聞くという関係にある。自分の生活や人生を平凡で退屈だと思っている彼は、自分のことを彼女にあまり話さない。話す価値がないと思っているからだが(多くの無口な人間が抱いている感情・・・)、彼女が求めているのは、面白い話ではなく、その記憶についての感情を共有することなのだ。
 脳内で記憶の消去から逃げ回りながら、彼は彼女(もちろん現実の彼女ではなく脳内のイメージ)に今まで語れなかった記憶を見せることになる。そこは、彼のやさしさや弱さの原点となっているような場所だ。そして、幼少期にそばにいた女性たちとクレメンタインのイメージが次々重なっていく。彼女の存在は、彼が意識していたよりもはるかに深く、彼の中に根付いている。
 記憶の消去に携わる社員たちの物語が記憶というテーマを補強している。他人の記憶を騙るもの、記憶の消去によって不倫関係を清算するもの・・・。もちろん、人の行動が表面的な記憶よりもっと深いなにかに突き動かされている以上、その試みは失敗に終るだろう。キルスティン・ダンストが、もう一人のヒロインとして、せつない役を演じている。
 クレメンタインのほうの記憶消去の過程は語られない。しかし、記憶を消されたはずの二人は同じ場所に現れる。お互い全く違う性格なのに、互いの孤独な姿に惹かれあった出会いの場所に。
 忘却というものは、消しゴムで真っ白にしてしまうことではなく、いくつかの記憶が心のどこかに沈殿し残っていく過程であることなのかもしれない。記憶を消したクレメンタイン、ジョエル、メアリーは、衝動に駆られて結局消す前と同じ行動を反復してしまうのだから。その反復から出て先に進むことが出来るのかは、観客の想像に委ねている。