カナリア

 走る岩瀬光一(石田法嗣)にカメラが寄り添い、打楽器の音も寄り添う。足音が刻む一つの単純なリズムがどんどん強度を増していく。そこに突然車が横切り横転し、そこで登場した少女由希(谷村美月)の早口の関西弁のリズムが加わり、映画の刻むビートはさらに激しくなっていく。余計な説明をそぎ落とした運動に、周りの大人たちを圧倒する強度と凶暴さを備えた寡黙な二人の顔のクローズアップが加わる。関西から東京へ向かう過程で二人が横切る場所の具体性は後ろに退いて、ただ二人の生々しい存在感と運動だけが前面に出てくる。
 寡黙な少年に少女が加わることで、そこに会話が生じる。少女の言葉は教団の教義を刷り込まれた少年を問い詰め、追い込み、そして彼自身の言葉を引き出す役目を果たしている。少女は言葉で少年を新興宗教の闇から引き戻し、少年は金属バットで少女と大人の援助交際を断ち切る。だが、二人のために用意された場所などこの社会にありはしない、だから彼らは手を取り合ってひたすら移動し続けるしかない。
 父子家庭の中で少女は自己を否定する言葉を父親から浴びせられ続けたことが少女の口から語られる。少年は母子家庭で、母親(甲田益也子)に連れられて入った教団施設での生活は回想で描写されるが、母親像は少年の目から見たもので彼女の入信の動機などがはっきり語られるわけではない。ただ、その母親の存在意義を全否定し、光一を引き取ることも拒否する祖父のことが彼の口から語られる。自分や自分の大事な人を全否定する大人たちの言葉に、少女は援助交際で答え、少年はドライバーを研ぎ澄まし凶器に変えることで答える。
 孤独な二人を慰撫する二つの歌がある。一つは少女が母親から聞いた「銀色の道」で、それは困難を乗り越えるためのおまじないのような歌だ。もう一つは少年が教団で覚えたタントラで、それは単に教団から強制された言葉ではなく、施設内で罰として吊るされた時に母親が子守唄のように唱えてくれたものだ。だから少年にとって宗教はリサイクル工場にいる元信者たちのように転向すればすむ問題ではない。それは彼にとって母親と共に自分の体の一部であり引き剥がすのにはそうとうな痛みを伴うだろう。あのリサイクル工場は光一とゆきの一時的な休息の場にはなっても、彼らの場所ではない。伊沢(西島秀俊)は光一と信頼関係で結ばれていて、彼が旅立つ光一に言った言葉には誠意がこもっている。しかし単純にあれを監督のメッセージと考えることは出来ないのではないか。彼が教団の闇から抜け出すことが出来ても、彼が教団に引き込んだものたちの中にはもっと深い闇に囚われてしまい、抜け出すことの出来ないものもいる。彼は指名手配中の元教団幹部と再会するが、幹部が話す言葉はみな施設で彼が子供に教え込んだ言葉と同じなのだ。光一もゆきと出会わなければまだ闇の中にいたかもしれない。だからだろうか、工場での西島秀俊にはまだ挫折から立ち直っていない暗さが染み付いている。そのような大人たちからも離れて、彼らは歌を口ずさみ歩み続ける。
 オウム事件という現実に寄り添って進んでいくかに見えるこの映画は、最後にその悲惨な現実からジャンプする力をスクリーンに炸裂させる。最後の光一の変貌した姿は、作品中何度も繰り返される白のイメージと結びつく。二人が出会った後ゆきの手錠を外したとき、草原に咲いていた白い花々、子持ちのレズビアン(りょう)が子供に電話しているときに、彼女と光一の母親のイメージを重ね合わせるためであるかのように、辺り一面に立ち込めている白い霧のスクリーン、教団施設で戯れる光一と友人の間で風にそよいでいる白い洗濯物、そして親の財産まで教団に寄付した元信者の息子や他の元信者、突然訪れた光一とゆき、すべてを赦す微笑を浮かべている盲目の老婆(井上雪子)の白髪・・・。偽りの白いヘッドギア、偽りの教義では成し遂げられない転生を、光一は絶望の淵から生還することで成し遂げる。
 復讐を目指す者として旅を始めた光一が最後に身に付けた力、それは赦す力である。この力は光一が持ち続けていた研ぎ澄まされたドライバーよりも強い切断力を持っている。教団幹部としてテロに関与した娘の子育てを失敗とみなす光一の祖父(品川徹)は、孫娘で子育てをやり直すという。言葉の端々に非人間的な冷たさを感じさせるこの祖父が、家族の悲劇を反復しようとしていることは明らかだ。親の強要と子の反発がもたらす、三世代に及ぶ悲劇の構造、光一の母が宗教にすがってもがきながらも結局そこから出られなかったこの構造の外に立つためには、年齢を超えた存在としてすべてを赦さなければならない。赦すという一言によって、光一は間違いを繰り返そうとしていた祖父、母と同じ運命をたどったかもしれない妹、光一に代わってドライバーを振り上げようとしていた由希、つまりあそこにいたすべての人を救っているのだ、祖父の魂を救うことが出来なかったと言い残した母に代わって。
 もちろん、これはフィクションである。現実の事件は光一のような存在を生み出さなかった。しかし、全てを赦す力とは、非現実的な力ではなく、現実の中に埋もれている潜在的可能性であって、フィクションとは、それを顕在化させる装置ではないだろうか。「我はすべてを赦すものなり」という一言によって光一、光一の妹朝子、由希が最後に立っている場所は、具体的な地名と全く結びつかない、抽象性を帯びた場所だが、非現実的な場所ではない。そこに向かおうとすることでしか、悲劇的な構造から抜け出すことは出来ないのだから。
 赦すということは、赦す相手と一緒に暮らすというような甘いことではない。三人が立っているのは頼るべき大人は誰も見当たらない孤独な場所だ。親子関係を切断することで再生しようとする三人にふさわしい音楽は、観客という大人たちの同情をひくような甘い音楽ではなく、そのような甘い同情を切断するような力を秘めた鋭いビートでなくてはならない。塩田明彦監督は、彼らを事件のかわいそうな被害者として観客から同情される存在としてではなく、そのような現実にとらわれた観客を置き去りにしてはるかに前を走り続ける恐るべき子供たちとして描いてるのだ。