ローレライ

 潜水艦内部は非常に狭いため、カメラの動きや芝居の自由度は当然低くなり、映画の撮影にとっていい条件ではないだろう。もちろん、今までの潜水艦映画はその狭さを逆手にとって、人間が生きていけない深海の水に取り囲まれた閉域にいる乗組員の恐怖と緊張感を描いてきた。 この映画にも水の浸入とか、動きが制限される閉所での厳しい訓練とか、他の潜水艦映画で使われていた要素が借用されているが、立派なセットにも関わらず、やや緊張感を欠いているように感じた。普通の潜水艦は潜望鏡を除けば、視覚による外界の認識はほとんど出来ないので、音波を頼るしかない。しかしそのような限定された状況が閉所の緊張感を高める役目を果たしてきた。しかしこの映画の場合、ローレライ・システムによって外界の状況が確認でき、さらにCGによって潜水艦外部の様子がいつも視覚化されているので、そのような緊張感を出すことができない。また、対決する軍艦にとって海面の下は視覚で確認することの出来ないので、潜水艦はジョーズの鮫のように恐怖の対象のはずなのだが、CGによる視覚化のせいでその恐怖もあまり演出できていない。視覚が不自由であるという乗組員の状況をある程度観客にも感じさせる必要があるのではないか。
 事件の黒幕である浅倉大佐(堤真一)は自分の心理を「罪と罰」のラスコーリコフの心理と重ね合わせているのだが、彼の心理の描き方には大きな不備がある。殺人という行為、殺人に対する罪の意識、そして自分自身を罰したいという心理のうち、描かれているのはせいぜい三つ目だけだろう。だから彼の行為が説得力あるものとして伝わらない。殺人を描くには被害者を描かなくてはならない。そして戦争を大東亜戦争というより日米戦争として描くフジテレビ出資のこの映画に「罰」はあっても「罪」は描かれないし、しかもここでの罰は阻止すべき一種の自殺でしかない。
「国の自殺」を阻止しようとする潜水艦の乗組員たちの(特攻は否定されているとはいえ)自己犠牲的な行為が顔のクローズアップと熱血アニメ風のセリフで演出され、俳優たちの熱演で観客の感情移入を誘うことには成功しているかもしれないが、その度に作戦の進行が止まりアクション映画としてのリズムは損なわれてしまっている。