きみに読む物語

 映画の冒頭で、老人になったノア(ジェームズ・ガーナー)は自分を平凡な男と呼ぶ。実際、回想によって主役の若い男女、ノア(ライアン・ゴズリング)とアリー(レイチェル・マクアダムス)が最初に画面に映ったとき、男は平凡な労働者の若者にしか見えないし、女は本気で好きでもない男たちを周りにはべらせて遊んでいるお嬢さんでしかない。ところが、二人が恋に落ちてから、二人の表情は周りの人たちよりもはるかに輝いて見え始める。ただしダンスのときや初体験の場面に見られるような不器用さやぎこちなさを主人公たちが残しているところがこの映画の魅力だろう。
 脇役で印象に残るのはアリーの母親アンである。娘を抑圧する典型的な母親役を演じているかに見えたジョアン・アレンが、不意に自分がかつて駆け落ちするほどの情熱恋愛を経験し、その思いを振り切って安定した結婚を選んだことを語ることで、母としてではなく一人の女性としての顔を見せる短い場面では、一人の女性の生き方が浮かび上がってくる。必死に自分に言い聞かせるように自分の選択は正しかったと涙を流しながら語るとき、そこに観客はこの時代、南部の女性が自由をあきらめて受け入れねばならなかった人生の残酷さを感じ取ることができる。
 若いころの恋物語と現在の老夫婦の物語に原作者が物語を絞り込んでいるのは、ロマンスには二人を引き裂く距離が必要だからである。若いころの物語には、南部特有の階級社会が、二人を引き離すことになるが、ここに特に目新しい要素はない。この物語に独自の魅力を与えているのは本来波乱万丈などないはずの老夫婦の恋愛物語である。一緒に老後の余生を送るノアとアリー(ジーナ・ローランズ)を引き離すのは老人性痴呆症である。痴呆症がもたらすのは、アリーが目の前にいるのに記憶を失っているため「遠くにいってしまう」という事態である。自分たちの物語を毎日読み聞かせるというのはこの距離を縮めるための儀式である。アリーがほんの数分記憶を取り戻し、また「遠くに行ってしまう」場面での、ジェームズ・ガーナーの表情がせつない。また、記憶をなくすということは自分に夫や子供、孫がいたということも思い出せないということであり、それは非常に孤独な状態である。呆然と窓の外や虚空を見つめるジーナ・ローランズの姿も印象的だ。