パッチギ!

 パッチギという言葉は本編では頭突きを意味する言葉として使われているが、本来は突き破る、乗り越えるという意味だという。そしてこの映画は壁を突き破り、隔たりを乗り越える動きに満ちている。冒頭でのバスを横転させる朝鮮高校生の直進的な動き、アンソン(高岡蒼佑)の助走をつけての頭突きや蹴り、キョンジャ(沢尻エリカ)に会うために川を歩いて渡る康介(塩谷瞬)、棺桶も入れることができない狭い戸口を木槌で打ち壊すアンソンとバンホー(波岡一喜)、乱闘シーンで大勢の高校生が川に入っていく動き。一見するとただ暴れまわっているだけのように見える彼らの動きは、周りからの見えない圧力に抗う動き、「パッチギ」として捉えることができる。
彼らの世界を分断する川が、画面上にも、歌の歌詞にも登場する。それは高校生たちの前に立ちはだかる壁、隔たりの象徴であり、朝鮮半島を、また世界中を分断する線の象徴でもある。この映画では京都の川の両岸に住む日本人と朝鮮人の間で乱闘、恋愛、友情が生じるのだが、二つのグループは拮抗する同規模のグループではない。朝鮮高校生たちの言葉を借りれば、「京都は敵だらけ」で日本人不良グループの包囲網が敷かれ、最後の乱闘シーンでも相手は倍以上の数がいる。この数の違いはもちろん大人の社会の縮図である。日本人不良グループのリーダーが大きなキャバレーの跡取り息子であり、康介も大きな寺の跡取り息子であるのに対して、朝鮮高校生たちの居場所はスクラップ工場や小さなホルモン焼き屋であり、アンソンにとっては「さびた鍋の底」である。京都ロケで撮られた画面には彼らの居場所が生々しく映し出されている。現在の居場所がこういう状態だからこそ、祖国、自分たちのルーツに対する切実な思いが生じるのであって、その揺れる想いをアンソン兄妹や他の在日の人々の会話の中に読み取ることができる。
 隔たりを生み出しているのは歴史である。隔たりを埋めようと努力する康介の前に、彼の生まれる前に起こった出来事、歴史が絶望的に立ちはだかるのが、葬式の場面である。チェドキ(尾上寛之)の伯父(笹野高史)の口から怒りをはらんだ声で語られるのは、どちらの国の教科書にも載らない、一人の人間の身体に刻み込まれた痛みと苦しみの歴史である。寺の息子である彼が朝鮮人の葬式で何の役割も果たせないままその場から排除され立ち去り、橋の上でギターを叩き壊す場面は映画の中で一番悲しい場面だが、さっきは簡単に横切れた川の隔たりがここではとてつもなく大きく見える。
 この映画の主題歌といえるザ・フォーク・クルセダーズイムジン河は、朝鮮人の心情を日本のフォークソングのスタイルで歌うという点で、二つの世界の隔たりの間に位置する歌であり、康介が歌うのにふさわしい。そしてラジオから流れるこの歌をバックにアンソンは桃子の下に、キョンジャは橋を超えて康介の下に走ることになる。あれほど大きく見えた隔たりを兄妹が一気に超えていく終盤の畳み掛ける展開が心地いい。