レイクサイドマーダーケース

 冒頭、まるで自分の未来を見つめるように水面に浮かぶ女を俯瞰で撮る眞野裕子と、カメラの光源を見つめられない弱視役所広司が登場する。受験の暗黒面も目撃しカメラに収めてしまった彼女自身が「水の女」になってしまう事件の後も、湖畔の隠微な雰囲気のせいもあって、光を反射する湖や周りの森と一体化してしまったかのような彼女の視線がお受験合宿に集まった親子を見つめているような気がする。彼らはどんなに隠蔽工作して、「全部なかったことにして」未来に向かおうとしてもこの視線から逃れられないのではないか。一方、役所広司は合宿に参加した親たちの中で唯一事件の中心=光源を全く見ていないし、周りの人間の演技も見えていない。また、弱視のせいで彼はライターというもう一つの光源を決定的な場所で失うだろう。彼には彼の周りにいる3人の女性、妻(薬師丸ひろ子)、カメラマンの愛人(眞野裕子)、娘(牧野有紗)の真の姿も見えていないのだが、逆に3人の女性の眼差しは強烈な印象を残す。妻と愛人が視線を交わす場面、妻の眼に宿る赤い光、夫と妻が口論し夫が妻の「眼」を恐れる場面、そして親たちを見つめている子供たちのリーダーである娘の視線。冒頭に流れるドノヴァンのSEASON OF THE WITCHに即して言えば魔女の視線ということになるのだろうか。探偵的な役割を果たし事件の真相を発見していくはずの役所広司の視線は、深入りすればするほど倫理観の根拠を失った混沌とした世界の中に入っていく。
 これは大人の視線で撮られた映画である。つまり、子供の気持ちを分かったような気になって語る映画ではない。だから同じ体操服を着て同じ靴を履き私立受験のための礼儀作法を身につけた子供たちの内面は最後まで不透明である。その内面に説明しがたい衝動が潜んでいることを、子供が虫を踏み潰す場面は暗示しているが、彼らの行動原理は一切わからない。そしてこの理解できない不透明な存在に、この合宿に集まった親たちは自分のすべてをかけている。終盤、塾講師の豊川悦司は子供たちの声を代弁するかのように親たちを批判するが、林道で彼が子供たちに真摯な言葉をかけても、彼らは無表情で素通りしていく。お互いの言葉が相手に届くことはない。
 子供のため、という思いがほとんど宗教的な熱意にまで高まっていく親たちの姿も子供たちとは別の意味で恐ろしい。ついさっきまで一緒に言葉を交わしていた女性の死体を、彼らは祈りを捧げるべき「死者」としてではなく受験にとって厄介な「物」と見なして、処理していく。医者として即物的な処理方法を提案して的確に実行に移していく柄本明が不気味な存在感をかもし出している。子供たちは親とは少し離れた場所に泊まっていてこの現場にはいないのだが、それにもかかわらずこの親たちの右往左往全体を見つめている子供たちの冷たい視線があるような気がしてならない。
面接の練習で「いい親」を臆面もなく演じている親たち、別居しているのにこの場だけいい夫婦を演じている親たち、そして事件を隠蔽するために役所広司の前で演技をする親たち(演技の達者な役者たちが演じる人間を演じているのが面白い)を、隣で見つめている子供たちもまた、私立受験のため「いい子」を演じる訓練をここで受けている。そして一種の魔女狩りとして、この嘘を暴く女性カメラマンの視線はここから排除される。映画の終盤、犠牲的ないい親であることがある確かな価値観として成立するかのように見え、役所と薬師丸の夫婦もその価値観に沿って幸せな道を歩み始めたかに見える。だが湖底の魔女の視線はそんな嘘を暴くべく彼らを見つめ続けている。