五線譜のラブレター

 孤独に死を迎えようとしているコール・ポーターケビン・クライン)の前で、彼の人生が彼の音楽と共に上演される。この回想に時々挟み込まれる老人コールの言葉には、成功者としての自慢や驕りなどよりも、むしろほのかな悔恨の苦味がこめられている。恋愛を歌った多くの名曲を生んだポーター自身の世界は、同性愛者たちとの享楽的な生活と、一途に夫を支え続ける妻リンダ(アシュレイ・ジャッド)との生活の二つに引き裂かれている。映画の中で流れる曲も、レッツ・ドゥ・イットのように世界全体が享楽に満ちているような歌から、リンダが好んだ歌であるトゥルー・ラブのように二人の恋人の誓いの歌まで、コールの世界全体を表すように選択されている。死期が迫ったリンダの枕元で「僕の歌はすべて君の歌だった」というコールに、リンダは「すべてじゃない・・・でもいくつかは」と、責めるような口調ではなく、ただ静かに答える。自分に正直に生きてきたこと自体を後悔していないとしても、自分の生き方が妻に報いるようなものではなかったことを彼はわかっていて、そのことがこの映画を甘ったるくない大人の恋愛映画にしている。
 二人が出会う場面を、観客は彼女が彼を見つめる視線を通して見る。これ以降、彼の人生は、彼の男性遍歴も含めて、彼女の視線の庇護の下にある。この視線の存在のおかげで、回想される物語が陥りがちな主観的な視野の狭さを、この映画は避けることに成功している。夫を見つめるアシュレイ・ジャッドの表情がどのツーショットの場面でもすばらしい。フランスのカフェの前でのプロポーズのような瑞々しい場面はもちろん、晩年の、夫よりも早く衰弱し、衰えていったリンダが、その眼差しや表情だけは変わらないまま彼のとなりでピアノを聞いている場面には心を打たれる。老けメイクの女優をこれほど愛おしいと思ってスクリーンを見つめることは今までなかったが、それは彼女の顔に刻まれた皺や疲労の色がどのような経験から生じたものか、観客がすでに知っているからだろう。被写体に対して、近づくべき時に近づき、遠ざかるべき時に遠ざかるカメラの距離感もすばらしく、二人のツーショットはほとんど完璧な構図にいつも収まっている。
 数々のすばらしいツーショットが示しているように、この映画はコール一人でなく「二人」に捧げられた映画と言えるだろう。死期の迫ったリンダにコールがソー・イン・ラブを歌う場面、最初コールがリンダへの気持ちを歌っているように見えるのだが、その歌詞、So taunt me /And hurt me /Deceive me /Desert me /I’m yours till I die /So in love, so in love /So in love with you am I はリンダが歌うべき歌かもしれないと思えてくる。だからこそこの歌をコールの隣で静かに満ち足りた表情で聞いているリンダの表情がせつないし、この歌が舞台上で歌われるときにコールが流す涙の意味も理解できるような気がする。
 ミュージカル的な場面やリハーサル場面、劇中劇などを見事に組み込んでいるアーウィン・ウィンクラー監督の演出もすばらしく、また歌って踊れて知的で優雅な雰囲気を無理なく出しているケヴィン・クラインはさすがにブロードウェイで活躍していただけあってすばらしく、彼以外の俳優が演じることはちょっと想像できない。あと、ジョナサン・プライスも歌うし、数々の有名歌手も出演しているので、サウンドトラックもコール・ポーター入門として十分楽しめる。