ターミナル

 トム・ハンクス旧ソ連圏内にある架空の国クラコウジアからアメリカ合衆国にやって来たビクター・ナボルスキーを演じている。おっとりしたユーモアで誰からも好かれるハリウッド俳優である彼が英語も話せない外国人を演じると聞いて、違和感をもつ人もいるだろうが、彼がこの映画で演じているのはやはり今回もアメリカの良心、理念としてのアメリカなのだ。スピルバーグはその目印としてナボルスキーに一つのアイテムを与えている。彼がもっている缶につまっているのが表しているのは、自由のない国の人々がかつて抱いていたアメリカのイメージである。1950年代までのアメリカ文化がもっていたまだ挫折を知らない楽天性が、この缶にはつまっている。現実の50年代アメリカがそんなに楽天的だったわけではなく、矛盾は60年代に噴出することになるが、アメリカの外部にいる人間のほうが自由の象徴としてのアメリカのイメージを純粋な形で(缶につめて保存するという形で)心に抱き続けていて、その想いをナボルスキーは父から受け継いでアメリカにやってきたことになる。スピルバーグ第二次世界大戦から50年代までの時代を繰り返し描いていて、この時代に執着しているようだが、現代を舞台にしているこの映画も実はその時代を扱っている。
 実際、空港から出ることを許されないナボルスキーの周りで起こる出来事はおとぎ話のような楽天性を帯びている。男女のロマンスの描き方など、ほとんど大人の恋愛関係としては描かれていないし、キャサリン・ゼタ=ジョーンズも、複数の男と付き合っているという設定はあるものの、いつもの誘惑する女性ではない。少年が女性にあこがれるという、A.Iで描かれた心理が、この映画でも形を変えて表れている。
 最初英語がほとんど話せない彼の周りで友人たち(黒人、ヒスパニック、アジア系)が使う英語は標準英語ではなく、移民たちの様々な訛りが入った英語である。彼がぎくしゃくした英語を使って周りの人たちから信頼されていくプロセスは、移民社会としてのアメリカの理想が、おとぎ話のように実現していくプロセスでもある。
 この映画には理念としてのアメリカ以外にもう一つのアメリカが存在する。それは国家としてのアメリカで、それは空港で監視カメラ(マイノリティ・リポートと監視社会という主題によってつながっている)を使ってアメリカ人とそうでない者とを峻別していく。ナボルスキーも監視カメラによって監視されていて、彼がカメラの動きをからかう場面もある。もちろんこのようなシステムをもたない国はないのだが、アメリカではこのチェックが9.11のテロ以後極めて厳しくなっていて、社会が移民に対する寛容さを失いつつある。では現在のアメリカが外に追い出そうとしているものは本当にアメリカと無関係な外部の他者なのだろうか。パスポートが無効になってしまったナボルスキーはこのシステムによってアメリカから閉め出されてしまうのだが、アメリカの良心を体現するトム・ハンクス演じる主人公を閉め出すことは、彼が大事に持っているあの青い缶を閉め出してしまうことを意味する。つまりそれはアメリカがかつて持っていた理念を失うことと同じである。だから主人公と空港国境警備局主任(スタンリー・トゥッチ)との笑いを誘う戦いを描いたこの映画は、現在のアメリカについての政治的寓話とも言える。