僕の彼女を紹介します

 整合性のある物語を作って、その登場人物にあう役者を連れてくるというやり方で作られた映画ではないのは明らかだ。クァク・ジェヨン監督はまずチョン・ジヒョンをどう撮りたいのか、彼女に何をさせたいのか、どんな服を着せたいのか、それを最優先していて、物語は単なる口実に過ぎず、整合性などさほど気にしている様子もない。実際チョン・ジヒョンは映画を見た後、監督は私のことをこんなに思っていたのかと感動したと語っている。物語の枠組みを超えて監督の感情が直接画面に出ていて、ほとんどプライベートフィルムのようである。
 彼女に痛めつけられ、踏みつけられたいという願望は前作の猟奇的な彼女に続いて今作でもはっきりとでている。男性主人公だけでなく脇役の不良高校生も踏みつけられるが、このときにはカメラが踏みつけられる側の視点で彼女を見上げている。前作の俳優がゲスト出演していることからもわかるように、物語の枠組みや登場人物の設定などはこの監督にとってたいした問題ではなく、彼女に踏みつけられる俳優はすべて監督の欲望を具現化するために存在するのである。むしろそういう場面を作るために監督はストーリーを作っているといえる。泥棒と間違えられるという設定は男性主人公が彼女に痛めつけられる場面のために作られ、手錠でつながれたまま歩くという設定は彼女に振り回されたいという願望を画面上で具現化するために作られる。彼女が長い髪を濡らしている場面を撮りたいから、主人公たちは物語上の必然性もあまりないのに雨の中クルクルスローモーションで踊り始めるし、二人の乗った車は唐突に湖に飛び込む。そこでは本当らしく見えることへの配慮とか物語を効率よく語ることなど二の次なのだ。
 英語原題にもなっている風はもちろん物語上欠かせないのだが、それ以上に監督の欲望を具現化するのに大いに役立っている。まずは彼女の長い髪を画面上でなびかせることができる。そして男性主人公が透明な存在になるということは、もはや彼を客観的視点で写す必要がなくなり、彼の視線とカメラの視線、つまり監督の視線が完全に一致する。そして校庭のシーンでもやっていた、彼女の周りをグルグル回るカメラが彼女の部屋に風が吹き渡るシーンでも出てくる。360度あらゆる視点から彼女を見つめたいという監督の願望をかなえるのに、恋人が風になるという設定ほどふさわしいものもないだろう。