Mr.インクレディブル

 大衆はヒーローという特別な存在に対して相反する感情を持っている。ヒーローは普通の人ができないことを生まれ持った才能で成し遂げてしまう存在で、周りの人々はヒーローを賞賛し、彼らに憧れる。インクレディブルの活躍が映画の冒頭、古いニュース映像で流れることからもわかるように、マスメディアはそういう大衆の気持ちを煽り立てるだろう。しかし現代社会で先天的な才能を持った存在は嫉妬、恐れの対象でもある。ヒーロー、スターが弱みを見せたとたん、マスメディアはそれを大々的に伝え大衆の負の感情が噴出してくる。訴訟問題をきっかけに彼らはバッシングを浴び、活動を禁止される。遺伝によって特殊な才能を受け継いだ家族たちは見た目とは裏腹に、同じであることを強要してくる周囲の人々に対してとても傷つきやすい存在なのだ。主人公の会社の上司や次男の学校の先生があらわにする憎しみの表情をみると、スーパーヒーローであることを隠していても彼らが他人の攻撃性を誘発してしまう存在であることがわかる。そのような周りの抑圧に、次男は反抗し、長女は自我を隠そうとする。
 この映画の巧みさは悪役の設定にある。悪役は社会の外部からやってくるわけではない。 シンドロームはマスコミを通じて伝えられるインクレディブルの活躍に憧れ、彼のような存在になりたいと思う。しかし彼にはインクレディブルのような先天的な才能に恵まれているわけではない。そこで憧れの感情は失望、嫉妬、復讐の気持ちへと変わる。ヒーローという先天的な能力をもつ特別な存在を許さず次々と抹殺していく彼はヒーローに対する大衆の負の感情を極端な形で表した存在である。彼は自ら開発した武器によってヒーローに対抗するのだが、金さえ出せば誰でも買って手に入れることができる武器は、遺伝によって独占的に受け継がれていくインクレディブル家の能力とは対称的である。実際シンドロームは計画が成功した後は、ヒーローに匹敵する力を与えてくれるこれらの武器を広めるといっている。そうすればみんな「同じ」になり、「特別な」存在、ヒーローはいなくなるからだ。この考えは特別な存在を嫉妬し引きずりおろそうとする大衆のほとんど病的な傾向(シンドローム)と根本的に同じである。
 大衆のヒーローに対する嫉妬心は自分もヒーローになりたいという感情を伴っている。ここで重要なのは、ヒーローのような肉体や精神をもつことではなく、ヒーローとして周囲から賞賛されることなのだ。自分にヒーローの中身など備わっていなくてもいい、周りが自分をヒーローとしてみてくれること、ヒーローのイメージが大事なのであり、シンドロームの自作自演の計画はそのことをよく表している。この場面でも事件の様子はニュースで流れており、もし計画が成功していたらヒーローとしてのシンドロームのイメージが彼の中身とは無関係にマスメディアを通じて伝えられ、増幅されていったことだろう。
 主人公の設定にも斬新さを感じる。上半身が筋肉で盛り上がった、一見典型的なアメリカンヒーローの姿をした主人公を見て、人々は強い父親が家族と世界を救う話を想像するだろうが、実はこれは家族が父親を救う話であり、その経験を通して子供たちが成長する話である。子供たちは自分たちを監視している社会の抑圧を逃れて初めて自分の能力を発揮する機会を与えられる。特に長女ヴァイオレットはその心理的成長が絵によってちゃんと表現されていて、彼女の二つの特殊能力、透明化とシールドは彼女の成長を表現する役割も果たしている。異性の前で姿を消してしまい、長い髪で顔の多くを隠している彼女には思春期の子供にありがちな自分に対する自信のなさが見えるが、シールドによって家族を守るうちに彼女は他人から守られる存在から他人を守る力をもつ存在に変わり、髪は後ろでまとめられる。
 悪役を倒しても、彼らの状況が大きく変わるわけではない。ヒーローとして世界を救いつつ、彼らは同じであれという周りの圧力に結束して耐え、目立たないようにして周りの嫉妬や恐れをさけなければならない。この世界設定の面白さが映画を魅力的なものにしている。