ポーラー・エクスプレス

 主人公の少年は北極がどんな場所か百科事典を読んで知っているし、プレゼントは両親が買ってくることを知っている。しかし彼はサンタクロースがやってくることを知らせる鈴の音を心のどこかで待ち望んでいる。サンタクロースがフィクションだと知りながら彼はなぜサンタへの期待を断ち切ることができないのか。多くの人がかつてサンタの存在を信じ、やがて成長するにつれそれが現実には存在しないことを知る。現実と非現実の貧しい二択で人は現実のほうを選びフィクションを非現実に属するものとしてしまう。しかしそれにもかかわらずサンタの物語を人々は繰り返し自分の子供に語り聞かせるのは、そのフィクションに単なる現実逃避とは違う何かを感じているからではないだろうか。現実を知り、成長することとサンタのフィクションを「信じる」ことは両立しないのだろうか。サンタの物語を信じたいのにその気持ちを自分で冷笑してしまう疑い深い少年は、サンタのフィクションを信じることについてのフィクションの主役にふさわしいキャラクターである。
 現実と非現実の間に心的現実という細い経路があり、サンタのフィクションはおそらくそこに属している。寝床に入り眠りに落ちるというのは現実から一時遠ざかり無意識の夢の世界に落ちていくことなのだが、列車が家の前に現れる12時前というのは、現実と夢の間にいる時間、意識と無意識の間のまどろみの時間なのかもしれない。そして列車に乗るには「乗る」という意識的な決断が必要であり、それがこの体験を無意識の夢の体験とは異なるものにしている。
この映画は他のサンタクロースの映画と違い、サンタクロースは終盤まで登場しない。サンタに出会うことがこの旅の最終目的といえる。それはつまりポーラー・エクスプレスの旅がサンタクロースのフィクションが子供たちの心に完全に根付き、心的現実となるまでのプロセスだからではないか。そして時に左右に大きく振られながらも線路から外れずに進む列車は現実と非現実の間の狭い経路を通り、現実か夢かの貧しい二者択一を逃れながら「クリスマス・スピリット」にたどり着こうとする子供たちの心理の動きそのものではないのか。
 列車の上にいる男は見ることは信じることと言い、一方列車の車掌は見えないものにも真実はあると言う。フィクションを信じることというテーマに関して重要なのは実は視覚ではない。列車が家の前に到着したときも、まず列車は地鳴りのような音として登場する。そしてCGがこれだけ使われている映画の中で、サンタクロースのフィクションにあるクリスマス・スピリットが少年の心に根付くというこの映画で一番大切な瞬間をロバート・ゼメキス監督はささやかな鈴の音で表現する。三人の子供たちのなかで主人公の少年だけが鈴の音を聞くことができないというエピソードは見えている風景は同じでも音によって表される心的現実は人によって違うことを表している。またフォレストガンプを思い出させる、宙を舞うチケットは画面の中に直接視覚的に表象できない風の流れを感じさせる。観客の五感に訴える繊細な演出が、子供たちの体験を立体的なものにしている。
 この旅からの帰還は夢から現実への復帰とは違う。この旅で目にした風景を主人公の少年が再び「見る」ことはないだろう。しかし一つの音が旅の体験と家での生活を結び付けてくれる。心に根付いたフィクションが主人公の中で死に絶えない限り、音は聞こえ続けるだろう。