ハウルの動く城

 戦時中という舞台設定にもかかわらず、戦争そのものについての詳しい状況説明はなく、下町の一人の少女から見た戦争にほぼ限定されている。つまりそれは空爆で破壊され燃える都市であり、その空爆を引き起こす政治は語られない。いつもの宮崎駿のヒロインと違い、ソフィー(倍賞千恵子)には世界や国全体を救う力や戦争を引き起こした人間を罰する力は与えられていないし、魔法使いも国家組織の中に組み込まれて戦争を支えているのだから魔法使いのハウル木村拓哉)は軍隊の活動を妨害することはできても戦争そのものを止める力はない。では戦争は単なる背景なのかというとそうではなく、二人のメロドラマに密接にかかわっている。
 まず「城」そのものが軍事的側面をもつ建造物である。それは居住空間であると同時に戦争で敵の攻撃を防ぐ役目を果たす。居住空間としてのみ考えるのなら、ハウルマルクル(神木隆之助)にあれほど巨大な鉄の城は必要ない。過剰に表面にくっつけられた鉄の部品は周りを威圧すると同時に、周りに対する怯えを表してもいるだろう。それはハウルの部屋を埋め尽くす魔女よけのまじないと同じ意味を持つ。この映画の面白い点は、この城が戦場で活躍するどころか逆に解体され縮小していくプロセスがクライマックスになっている点である。テーマが長セリフで説明されるのではなく、城の造形とその変化によって表される。
 鉄の重さを感じさせるという点でハウルの城は他の兵器と似ている。しかし決定的に違うのはその動力源である。城を動かすカルシファー我修院達也)は悪魔とはいえ知性をもつ火であるのに対して、兵器がもたらすのは無制限に燃え広がる空爆の火である。カルシファーの言葉を借りれば、火薬の火には「礼儀がない。」だからハウルの城には二つの可能性がある。一つは国家に属して兵器になっていくことであり、彼にも召集令状が届いている。もう一つは「城」を「家」に変えていくことであり、そのためにはソフィーの力が必要である。
 ソフィーが城に持ち込むのは家事である。料理、掃除、洗濯。最初城は重々しく威圧的に見えたが、洗濯物を張り巡らされるとその印象は一変する。ソフィーによってそこに家庭生活が生まれ、そして血のつながらない「家族」が形成される。これは簡単に国家に組み込まれるような家族ではなく、かつての敵までどんどん組み入れてしまう。実の家族の中では理解されずに浮いているソフィーは、自分自身で新しい家族をつくっていく能力がある。あのユーモラスな階段上りの場面(キャラの動きで客を魅了するアニメーションにおいて、主人公の体が速く動かないことを逆手にとってこんなシーンをつくる才能には脱帽する)にソフィーの性格が良く現れている。かつては憎んでいた荒地の魔女美輪明宏)をいつのまにか励まして、結局家族にしてしまう才能を彼女は持っていて、それは戦争の原理そのものに対立している。
 しかしここで一つ問題が生じる。ハウルはソフィーのために立派な店付の家を作るのだが、彼は彼女とその家を守るために戦場に行く。彼はどちらかの陣営に属しているのではなく軍隊の活動そのものを妨害しているのだが、それでも体には生き物と鉄の焼けるにおいが染みこんでいき、自らが悪魔の兵器と化してしまう可能性がある。ソフィーが惹かれたのは彼の破壊的な側面ではなく最初の出会いのときに背後から聞こえてきた、ささやくような声(木村拓哉の声は適役だと思う)に現れているナイーブさだろう。だから彼を戦場から引き戻さねばならないのだが、「ようやく守らなければならないものができたんだ」というハウルのセリフに表れている愛するもののために戦うというヒロイズムを否定するのは難しい。しかしこのヒロイズムは戦場に人を駆り立てるのにいつも使われるのであり、だからソフィーは「あの人は弱虫でいい」という一言でそれを否定する。これは彼のナイーブな側面、小鳥のような心臓を守るという宣言でもある。この後のソフィーの行動の中にある、ヒロイズムの原理を解体するラジカリズムを見逃してはならない。一つの立派な家を守るために彼が戦うというのならその家自体を自ら解体して戦う理由自体を消滅させればいい、家はまた別の場所に再構築すればいい。そしてもちろんそこにはもう威圧的な外観は必要ないが、逃げ回る機動力はあったほうがいいかもしれない。
 最初に述べたように、ソフィーにもハウルにも世界を変える力はない。だから戦争自体は他のサブキャラクターが解決するしかないし、そこに物足りなさを感じる人がいるのかもしれない。戦場から一人の人間を取り戻し、人間性を回復させること。ソフィーの「戦い」はただそのことのためだけに行われるのであり、戦争全体にはかかわらない。国全体のことを考えねばならないというサリマン(加藤治子)や世論と、遊牧的なハウルや家庭的なソフィーの行動原理は対立している。二人に世界全体を考えるべきだという責任感を負わせなかったのはむしろこの映画の長所だと思う。城の変貌でテーマを表すという一貫性は、最後に出てくる二人の居住空間(もはや城と呼ぶべきではないだろう)が遊牧的な機動性と家庭的な安心感の両方を伴っているところにも表れている。