血と骨

 冒頭いきなり金俊平(ビートたけし)が英姫(鈴木京香)を強姦する場面から映画は始まるが、崔洋一監督はその出来事が起こるに至る経緯、例えば彼がどこで彼女を見かけ、欲望をもつに至ったかということは一切省略して、いきなり出来事そのものを描写する。これは映画全体を通して一貫している。だから我々は彼に感情移入するようなきっかけを与えられずに彼が大声を出して周りの事物や人間に暴力を炸裂させるのをあっけにとられて眺め続けることになる。実際には長い年月が経過しており、登場人物は年をとり、長屋の様子も変わっていくのだが、俊平の姿は多面性を見せることはなく、同じ行動をひたすら反復しているように見える。それは俊平の行動原理が異様なまでに単純な欲望につらぬかれているからである。そして暴力場面の連続は最後にはほとんど不条理な笑いの領域まで近づいていくのであって、娘の葬式で乱闘になってしまいその中を家族が死体を運んで右往左往する場面や、俊平が脳梗塞で体が不自由になったあと逆に愛人に棒でポカポカ殴られる場面などは、明らかにそういう風に演出されている。
 彼は蒲鉾工場を経営し、後には高利貸しをして富を増やすのだが、不思議なことにそれで贅沢をしているようには見えない。彼は増やした金を壁や床下に秘蔵し、これを増やし続けること自体を望んでいる。そして取立ての場面で明らかなように、彼にとって金は自分の血であり、それを増幅させることに異様な執着を見せる。事業の縮小などは彼にとって自分自身の縮小にほかならず、絶対にあってはならないことだ。
 また彼は若い愛人を同じ長屋に住ませているが、セックスの快楽をむさぼるためだけではなく、彼は子供に愛情などもたないにもかかわらず自分の血を受け継いだ子供を作り続けることに執着している。老いて自分の力の衰弱を感じ始めてからは長男の正雄(新井浩文)に事業を継がせようとするし、北朝鮮には愛人との間に作った息子を強引に連れて行く。悲惨な人生を生きた末に自殺した娘の花子(田畑智子)の葬式に現れ、「わしの娘どこや、わしの娘出せ」と理不尽な言葉を吐き暴れる彼に普通の意味での親の愛情など読み取るべきではないだろう。これは借金の取立てで俺の血を返せと叫んでいる場面とほとんど同じことなのではないか。
 この男の欲望の強さには奇妙な吸引力があり、彼が愛情らしきものを見せる唯一の相手である愛人の清子(中村優子)や彼に最後までついていく信義(松重豊)はもちろんのこと、彼を忌み嫌っている彼の家族ですらその引力の呪縛から逃れることができない。唯一そこから自由になりえたのは、彼の暴力の炸裂を正面から受け止めて雨の中の乱闘を俊平と演じて見せた俊平の私生児武(オダギリジョー)かもしれない。だから正雄の語るこの物語の中で武は危険な魅力で輝いているのだ。
 俊平の暴力には屈折した精神が透けて見えたりはせず、単純で化け物じみた欲望だけが見える。その違いがわかるのが花子が虐待される二つの場面である。もちろんどちらも彼女にとっては悲惨な体験なのだが、二つの場面の印象は全く違う。俊平は彼女の前に座り、「わしはおのれのなんじゃ!」と繰り返す。この問いは周りの人間や観客が抱く、お前はいったい何者なのか、という問いとも重なるのだが、もちろん答えは彼自身にもわからないのだ。彼の暴力場面には娘を出せ、とか子供を作れ、とか極めて単純な命令の言葉が出てくることが多い。一方、花子の夫の暴力は家庭内暴力を振るう男の典型であり、相手をネチネチと罵り、後ろから小突き回す。一気に炸裂するのではなく、粘着的に持続する暴力。この暴力には化物というより小物という言葉がぴったりである。
 ほとんど感情移入の不可能な主人公の、反復される暴力衝動の発露にこれほどの魅力を与えた監督の描写力や、監督の要求に答えた俳優たちの熱演を堪能した2時間半だった。