隠し剣 鬼の爪

 藤沢周平の短編2本を原作にしているためか、各エピソードがあまりうまくつながっていないように思える。主人公宗蔵(永瀬正敏)を中心にして、一方にはきえ(松たか子)との身分違いの恋愛感情が描かれ、もう一方には幕末の政治に巻き込まれ友人の狭間(小澤征悦)と対決にいたるストーリーがある。たそがれ清兵衛と同じく、もう終わりつつある武士の時代の掟に縛られながら生きている人々を描いており、我々はそんな掟があと数年でなくなることを知っているだけにいっそう彼らのおかれた苦境に同情することになる。
 まず、冒頭で宗蔵とその家族との貧しいが慎ましい幸せな生活が描かれるが、ここでの狭い家屋の雰囲気はたそがれ清兵衛と良く似ている。きえとの話が映画の中心ならこの家を離れるきえの嫁入りのエピソードも描写されていたはずだが、そこは省略され、3年後、嫁入り先の商家できえと宗蔵の再会のシーンになるのだが、この後の宗蔵が酷使され病気になったきえを商家から連れ出すシーンはこの映画でもっとも情感のこもったシーンだと思う。武士が商家の妻を家から連れ出すのはもちろん常識外れのことであり、商家の姑も常識を盾に彼を追い出そうとするのだが、この時映画の冒頭から今まで穏やかに話していた宗蔵が周りの人間を圧倒する大声できえを連れて帰ると宣言する。この声は映画全体を通して描かれている身分制の掟への反抗の声であり、同時に自分でも意識していない、自分の心の奥深くに抑え込んでいたきえへの恋愛感情のほとばしりでもある。その後二人はしばらく共同生活を送るのだが、恋愛表現の一歩手前でいつも立ち止まってしまう二人の関係は永瀬と松の好演もあって魅力的に描かれている。
 一方、宗蔵と狭間の関係は画面上で直接描かれることがあまりなく、一緒に剣を学んだとか御前試合での対決といった過去のいきさつがセリフで説明されるだけなので、二人が藩の命令によって対決を余儀なくされるという状況にあまり悲劇性を感じることができない。また最後の対決での殺陣も、いまひとつ迫力や緊張感に欠ける。ただし二人の情念のぶつけ合いである刀での至近距離での切りあいに遠くから銃が介入するというのは幕末の時代背景にふさわしい演出となっている。
 そして一番疑問なのはこのリアリズムの物語に戯画的な悪役、家老堀(緒形拳)とその成敗という必殺仕事人のような要素を入れて、それが映画のクライマックスになっていることである。もちろんこのエピソードがないと「隠し剣」にならないのかもしれないが、悪役の悪行もさほど直接的に描かれているわけではないので盛り上がりに欠けるし、なによりこのエピソードだけ浮いているように思える。
 各エピソードの合間に挟まれるこっけいな軍事教練は面白い。武士が必死に身につけようと奮闘しているのは西洋の教養や思想ではなく、西洋の身体の動かし方である。腿を上げるという動きをほとんどしたことのない彼らのちぐはぐな動きはセリフのギャグではなく動きのギャグになっていて、画面を活気付けている。
 狭間や堀との関係がクライマックスを迎える間、きえは実家に戻っていて画面に登場しない。映画の最後にきえが再登場するのだが、本来情感が高まるシーンになるはずのところが、二人の感情の高まりが後半映画から消えていたせいで、前半の二人の場面に比べると物足りない感じがする。たそがれでは宮沢りえが戦いから真田広之が帰るのを家でじっと心配して待っていたが、なぜこの映画では松たか子が戦いの間主人公のそばにいない設定にしたのか、不思議に思う。