いま、会いにゆきます

 テレビドラマで活躍する土井裕泰の映画初監督作品。雨の季節に死んだ妻が還ってくるという不思議な出来事を、特撮にほとんど頼らず、春から梅雨の季節に入って変わる陽射しの変化、濡れて色の濃くなった森の緑、廃墟の濡れたアスファルトの色などで表現する撮影がすばらしい(撮影監督柴主高秀)。これはもちろん梅雨が明けて澪(竹内結子)が戻っていく場面も同様で、窓から差し込む陽射しの変化が夫の巧(中村獅童)と息子の佑司(武井証)に別れの時期の訪れを知らせることになる。そして森にある広大な湖の水面を想起させる廃墟の水溜りが効果的に別れを演出している。またロケ場所に選ばれた諏訪の森のもつ神秘的な雰囲気、三人が何度もくぐり抜ける小さなトンネル、そして美術監督種田陽平が作り上げた見事な廃工場が、この奇跡的な出来事が起こりうる雰囲気を作り上げている。だから私は廃工場で佑司の肩越しからカメラが髪を雨で湿らし呆然とした表情で座り込んでいる澪を捉える瞬間を違和感なく受け入れることができた。
 中村獅童は今までの癖のある役をやっていたときのやや単純で大袈裟な演技とは全く違い、病気のせいで生きる力の弱い、ナイーブだが自分に自信のもてない巧をつぶやくような声や丸めた背中や少しおどおどしたような視線などで繊細に演じている。そして竹内結子は今まで彼女が出演した映画の中でも最高の演技を見せている。記憶を失い呆然とした表情で二人の前に現れた澪は、まず母親になっていくという体験をする。最初やや遠慮気味に優しくしていたのが、人懐っこい佑司に導かれて最後には子供に色んな家事を教え込むところまで母親らしくなっていくのだが、もちろんこの過程で彼女の表情は変化していく。そして同時に見知らぬ男性と初めて出会ったかのように巧を好きになっていくという体験をする。そこでの彼女の表情は初恋をする女性のような軽い戸惑いや不安をにじませた顔から、相手を全面的に信頼した妻の顔へと変わっていく。さらに、巧の同僚永瀬(市川実日子)の前で自分の死後も夫に自分だけを愛してほしいという気持ちを抑えきれず涙を流すシーンや、雨の季節の終わりに二人の下を去るシーンなど、すばらしい場面がたくさんある。
 カップルのうち一人が死んでしまうという物語が最近多く、この映画もそのうちの一つといえるかもしれない。その場合、視点は残された側(男性の場合が多い)にあり、死んだ側(女性の場合が多い)は一方的に回想される存在であることが多い。もし「泣ける」映画を作りたいだけならこの映画も別れの場面で終わってもよかっただろう、そうすれば残されたものの悲しみを観客は共有して映画は終わることになる。しかしこの映画で澪は、病気で若くして死んでしまうとはいえ、観客からかわいそうと同情されるような弱い存在ではない。そのことが、映画の終盤、日記を残していった澪の視点で二人の恋愛が語りなおされるシークエンスで明らかになる。ひまわり畑の場面や別れの場面で巧に対して見せた澪の相手を包み込むような大きな存在感の秘密がここで明かされる。澪は不幸な運命に翻弄される受動的な存在ではなく、自らの強い意思(「いま、会いにゆきます」)で自ら歩む道を決めた女性であり、そんな彼女に似合うのはもはや涙で濡れたような廃工場ではなく、画面いっぱいに咲き乱れている生命力あふれる夏のひまわりである。泣かせることよりも澪が自分で運命を決めたことの幸福を前面に押し出したこの最後のシークエンスはすばらしいと思う。ちなみに同じシーンでも少しカメラ位置が違っていたりして、同じ出来事を見ている二人の視点の違いをうまく表現している。