珈琲時光

 カーテンやすだれ、すりガラスなどで区切られた画面の奥から手前のほうへ柔らかい光が染み出してきていて、蝉の声や車の通る音なども聞こえてくる。侯孝賢の映画において、内部は外部から完全に遮断されているのではなく、光や音によって外部に開かれているので、画面の外の空間の広がりをいつも感じることができる。陽子(一青窈)は自分の部屋のカーテンを触って部屋に入る光の量を調節するのだが、これはこの映画にふさわしい身振りといえる。空間の中に複数の人物がいるときは手前と奥に配置されることが多く、その場合手前と奥では光の質が違う。例えば奥で料理している陽子の母(余貴美子)と手前でテレビを見ている父(小林捻侍)には違う質の光があたり、動きのリズムも違うのだが、二つの空間は完全に遮断されているわけでも明暗でくっきり区切られているのでもなく、自然光の微妙なグラデーションのなかでつながっている。何度もでてくる交差する複数の電車のように、一定の距離を保ったままお互いの運動を妨げないで共存している登場人物たちのたたずまいがすばらしい。
 陽子の部屋に父母が訪ねてくる場面は、娘の行動や生活に戸惑いながらも娘の意思を妨げようとはしない父母の会話や振る舞いがほほえましい。特に、何か声をかけようとしながらきっかけがつかめず、娘の器に娘の好物のじゃがいもを置いてやるぐらいのことしかできずにいる父親の振る舞いは、この映画で一番ユーモアのある場面である。 
 陽子と肇(浅野忠信)は正面から向き合って相手を見つめる場面はほとんどなく、たいてい互いの視線が直角に交わるような位置に座っている。男女の性的な関係までには至らないが、そばにいる相手の存在を心地よく思っている二人は、時に寄り添って協力し合うこともあるが、しかし並行して走る電車に二人が乗っている場面のように、一定の距離を保って陽子は取材し、肇は電車の音を採取している。
 肇の描いた絵には電車に囲まれて音を採取している自分の姿が描かれているのだが、この絵の中の肇は、母親の心臓の鼓動を全身で感じている胎児のようであり、ここでは電車の音と振動が母親がわりになっている。彼にとって電車は単に外から見られる対象ではなく、乗車して全身で感じるものであり、だからこそ電車の振動音を集めることが重要なのだ。そしてこの絵のイメージは妊娠している陽子ともつながっている。
 映画の冒頭で、陽子が見た取替え子の夢が語られる。しかし妊娠している彼女の語り方に恐怖や不安は感じられない。この夢は彼女の個人史、つまり彼女を生んだ母と今の母が別の人であるという事実とつながっていることが判明するのだが、それを電話で語る彼女には何の屈折も感じられず、事実彼女は今の母親と自然体で接していて料理をねだって少し甘えて見せることさえできるのだ。むしろ、彼女にとって血縁関係に縛られ、動きを奪われることのほうが恐ろしいのであって、マザコンらしい胎児の父親の家の嫁になる、つまり相手の「家に入る」ことこそ避けるべきことなのだ。今のままなら生まれてくる子供は実の父親とは離れて暮らすことになるだろうが、それは彼女の母親が取り替えられた体験と同じように、別に悲劇的なことではない。彼女は取材でいろんな場所に電車で移動するのだが、いつも自然体で相手と接することができ、孤独といったネガティブなイメージは全くない。台湾と日本との間も何度も往復していて、自分の部屋には調味料すらなく隣に借りに行く彼女には、何度も出てくる緩やかに動く電車のイメージがそのまま重なる。彼女の運動には始点も終点もなく、性急な反抗やここではないどこかロマンチックな理想郷への逃走もない。ただどこかからどこかへ移動し続けることが大事であり、その自由を自分にも生まれてくる子供にも確保しなければならない。
 彼女が取材で追いかけている江文也もまた、彼女にふさわしい作曲家である。台湾生まれで日本で活躍し、敗戦後は中国で失意の晩年をおくった彼は、今所属先を失った存在である。中国からは日帝の手先というレッテルをはられ、日本からはかつて日本を代表する作曲家とみなされていたにもかかわらず、中国人の作曲家として日本の音楽史から無視されている。しかしこの映画での江文也のイメージには悲劇性は全くなく、ここで出てくるのは華やかに活躍していた若いころの写真と浮遊感をともなうピアノの旋律だけである。そして所属先を失い浮遊しているような存在だからこそこの作曲家は彼女にとって魅力的なのだ。