華氏911

 失業率が実質50%を超える貧しい街で、新兵を「補充」するため軍人がキャッチセールスの要領で若者たちを次々と勧誘していく。学費を稼ぐためには、この街の外に出るには、軍隊を選ぶ以外にほとんど選択肢のない若者たち。やむを得ず子供たちを軍隊に送り出している母親は、子供たちは国の役に立っていると自分に言い聞かせる。国から完全に見捨てられた街に住む彼女が、自分たちが軍隊を通して国を支えているという自負心をもって国旗を毎日家に掲げる。これは啓蒙することで解消される無知とは違う。(啓蒙できると監督は思っているかもしれないが。)絶望的な経済格差を、ナショナリズムの幻想は一時忘れさせてくれる。彼女のような人たちはほとんど無意識のうちに自分の自負心を壊してしまうようなものから目をそむけ、無知でいることを選んでいる。彼女がその幻想から目覚めるのは息子が戦死したあとにすぎない。
 アメリカが犠牲を払ったのだから、アメリカが利益を得るべきだというのが、イラク復興事業に関するアメリカ政府の考えだが、犠牲を払う者と利益を得る者は全く異なる。スクリーンに映し出される、復興事業に群がるビジネスマンたちの醜い表情、彼らはその利益を思い浮かべて笑みを隠し切れない。アラブ世界の石油と先進国の大企業、先進国の軍需産業と戦場、こんなわかりやすい構図ですら、大企業に支えられたマスメディアのなかでは見えにくくなりつつあり、改めてこの映画がそれを見せてくれる。
 日本で疑惑を持たれた政治家がメディアで批判を受けたにもかかわらず結局当選するという出来事をこれまで何度も見てきた。私が知りたいのは政治家自身への批判だけでなく支持する人々のメンタリティである。富裕層を優遇する政策をとっていてもそれ以外の階層から支持を受ける政治家がいる。政策よりも本人のイメージ、キャラが支持されているのだろう。この映画でもブッシュ大統領が批判の対象になっているのだが、彼を支持する人々にとって彼が知性的に見えない(愛嬌があると思われているのだろうか?)ことすらプラスに働いているように見える。(日本でも知的には見えない政治家は多数存在する。)こういう政治家に果たしてこの映画の批判が有効なのか、選挙結果が気になるところだ。しかし自称「戦争大統領」対「ベトナム戦争の英雄」という選挙戦も気が滅入るものがある。

追記:アメリカでこの映画が大ヒットしているにもかかわらず、最近の世論調査ではブッシュがケリーをリードしている。やはり怖いのは候補者よりもそれを支持する人々のメンタリティである。eiga.comの映画評北小路隆志)の引用

注意しろ、この映画で描かれるほどブッシュはバカじゃない、と「華氏911」についてゴダールは発言した。そう、マイケル・ムーアの狙いが、ブッシュをバカにすることだけなら、彼は成功した。だけど実際に僕らが恐れるのは、そんなバカな奴が大統領に再選される可能性の高さにある。ブッシュはバカだが、それでも彼でいいのだ、といった居直りこそが恐ろしい。だとすれば、ブッシュがバカだと言い募る「華氏911」は、政治家はバカでもいい、といったシニックな立場の蔓延=政治危機に対してあまり有効じゃないだろう。