誰も知らない

 こんなに映画の中の誰かの日常生活を息をつめて、祈るように見つめ続けることは滅多にないだろう。それは生命の危機にすらさらされる子供たちの生活の貧しさ、悲惨さだけが原因ではなく、そこに思いもかけないささやかな豊かさを次々と見出してゆく彼らの行動から目が離せないからでもある。室内に散らばっている様々な物、例えば小さなクレヨン、植木鉢の役割を果たすカップラーメンの容器、赤いおもちゃのピアノ、赤いマニキュア、領収書、アポロチョコなどと、それに触れる子供たちの指先、表情が美しく、ナレーションや説明的なセリフなしに映像の力だけで彼らの生活を伝えてくれる。(この映画の美しい細部を次々と列挙した松浦寿輝のレビューがInvitationに掲載されていて、大変読み応えがある。)子供たちの服や靴は徐々に黒ずんでいき、髪も伸び放題で乱れていく。それは彼らの生活が危機を迎えつつある印でもあり、そういう生活の悲惨さも十分に伝わってくるのだが、それと同時に、柳楽優弥が一時的に友人になる悪童連中の新品の靴や制服(もちろんそれは柳楽優弥があこがれるものなのだが)よりも画面上で輝いて見える。学校に適応できずに公園で携帯をいじって時間をつぶしている韓英恵が彼らの生活にひきつけられていくのは単なる同情だけではないだろう。水道を止められた彼らが公園で水を汲んで帰る帰り道、その悲惨な貧しさがもたらした苦役を彼らは石段で遊戯に変えてしまう。そうしたある種の豊かさに誘われるように彼女は彼らの生活に入り込んでいくのだ。また、ゴンチチの音楽は彼らの生活の悲惨さではなくささやかな細部がもたらす豊かさに寄り添っている。
 四人の子役たち(柳楽優弥北浦愛、木村飛影、清水萌々子)は普段から共同生活を送っているかのような自然さで画面に収まっている。テレビドラマにしょっちゅう出ている子役たちのわかりやすい饒舌な演技とは異質の寡黙さをもつ柳楽と北浦は、説明的なセリフで物語を理解させようとはしないこの映画にふさわしい俳優だといえる。また同じような寡黙さとまなざしの強さをもつ韓英恵にも同じことが言える。YOUは子供たちに好かれる無邪気さ(子供たちが母親を憎んではいないことが、この映画をありふれたトラウマの物語の醜さから救っている)と、自分がいなくなった後の子供たちの生活の悲惨さを想像することもできない幼稚で無責任なエゴイズムの両面を表していて適役だと思う。
 次女の遺体を埋めた後、遺体の冷たさがまとわりついて震えがとまらない柳楽の手に、同じように土にまみれた韓英恵の手が重ねられる。その後の二人の寡黙な歩行、車内での土まみれの二人の姿、海の上を美しい放物線を描いて二人を乗せて走るモノレール、この美しいショットの連続は、この映画が伝える情感がクライマックスに達する瞬間である。そして親や社会を批判する代わりに、戸籍制度や家族制度とは異なる絆で結ばれた子供たちの存在と生活を全肯定する最後のショットも、この映画にふさわしい。