スチームボーイ

 フィクションにおける機械と人間の関係というと最近は人間の意識がコンピューターのネットワークと接続する「電脳」が決まったパターンになりつつあるが、19世紀イギリスを背景にしたこの映画では人間は「手」でねじを回したりバルブを閉めたりして機械と関係を持つ。主人公レイも最初機械工の労働者として登場する。そしてその後のいくつかのシーンで金属の硬さ(レイがいじめっ子を部品で殴る場面)、蒸気の熱さが強調され、「手」で機械をいじるときの具体的な感触を観客は感じることができる。巨大なスチーム城でさえ、多くの作業員の手作業による調整抜きには作動しないし、エディは機械化した「手」によって城のコクピットと一体化するが、もちろん作業員の労働抜きには十分に動かすことはできない。
 拾った部品で何かを作り上げるレイのように、人が機械と幸福な関係を持ち続けることは難しい。それを妨げるのは国家と資本である。レイの父と祖父の科学観の対立、アメリカ系軍需産業とイギリス国家の対立の中にレイは巻き込まれていくのだが、レイは企業にも国家にもスチームボールを渡すことを拒否する。「こんなことのためにおじいちゃんはこのボールを発明したんじゃない。」もちろんレイにも祖父にも科学が進むべき道が見えているわけではないのだが、このままでは何かが失われるという感覚は共有されている。
 実際、この映画で魅力的なのは軍需産業が開発した様々な最新兵器やスチーム城ではない。それらはむしろコントロールを失い自滅する場面が多い。それよりもレイが開発した奇妙な自転車、墜落した飛行装置を短時間で改良した装置といった手作りの機械が示す不安定な動き、またそれを何とか制御しようとするレイの動きのほうが魅力的なのだ。スチームという動力源自体がそもそも制が難しく不安定さを抱えており、そのことが映画を面白くしている。なぜなら制御しようとする人間の「手」と機械との葛藤がそこに生じるから。