ロスト・イン・トランスレーション

 「翻訳」はしばしば異言語間での意図の食い違いを招くのだが、この映画の主人公の男女が孤独感にさいなまれるのは日米間の意図の食い違いだけが原因ではない。ボブ・ハリス(ビル・マーレー)の場合、仕事と家庭の両面で自分の居場所を失いつつある。妻とのすれ違いは時差を無視して送られてくるファックスや携帯電話での連絡といった、接触を保つためにあるはずのメディアによってかえって増幅される。彼らは互いに自分の意図を相手にわかるように「翻訳」して伝えることができない。仕事での孤独感は、映画以外の仕事を生活のために選んでしまったことに起因する。CMの撮影現場でボブが振り返るときに右からか左からかと聞くのは、映画の編集を考えればボブにとってごく当然の具体的な質問なのだが、バカCM監督が求めているのは漠然とした「イメージ」に過ぎない。そして両者のやりとりの混乱を翻訳者が増幅させる。このバカ監督を日本人代表と考えて怒りに震える必要など全くないだろう。テレビのばかばかしさはボブがテレビのヴァラエティ番組に出るシーンでも繰り返されるのだが、そこでは内容のばかばかしさだけでなく撮影や演出、すべてがばかばかしいのであって、このばかばかしさは映画を見る人間なら国籍に関係なく誰でも感じられるものである。事実、次の広告写真を撮影する現場では、不十分な英語の発音による若干の混乱はあっても、日本人カメラマンが映画俳優の名前を意図を伝える手段として用いたおかげで、CM撮影よりも現場はスムーズに進行していく。
 この映画においてコミュニケーションは翻訳という媒介をはさまないほうがかえってうまくいくのであって、その一番楽しい例は病院でのボブと日本人のおばあちゃんとの間の会話?である。両者の間のわけのわからないやり取りの後、彼の元にはコミュニケーションが成立した証として大きなぬいぐるみが残される。この病院のシーンではシャーロット(スカーレット・ヨハンソン)の診察は翻訳者なしになんとか成立してしまうのだ。
 ボブよりもさらに深刻な孤独感にさいなまれているのがシャーロットである。彼女と夫との間にもすれ違いがあり、しかもボブにとっては救いとなる子供がこの若いカップルの間にはいない。仕事をもたない彼女は大学は出たが自分が何者になれるかさえまだわからない。ホテルの窓辺にひざをかかえ座り込む彼女は、日本人だけでなく映画ファンの同国人からも逃れバーでひとりで酒を飲んでいるボブよりもはるかに強い孤独を画面全体ににじませている。もちろんボブとの恋愛までには至らない微妙な関係や、東京にいる感覚的に通じるものを持っている若い友人たち(ビジネスの世界でも伝統文化でもない、東京のもう一つの側面で、音楽のセンスを通じて「翻訳」なしでコミュニケーションは成立する)との楽しい時間によって一時癒されるとしても、最後に抱擁する場面の後彼女が戻っていく世界を想像するとせつない気持ちになる。