ビッグ・フィッシュ

 いつもほら話を語り周りを楽しませたりあきれさせたりしている父とそんな父を受け入れられない息子。 父親の語るほら話には人をひきつける魅力が備わっている。しかしジャーナリストの息子はそれが事実を覆い隠す「嘘」に見えてしまう。しかし妻へのプロポーズの話がそうであるように、それは現実に彼の周りにいる人たちへの愛情がフィクションという形でしか表せないものだからだろう。水平線まで埋め尽くされた水仙(すばらしい構図での撮影)、あれは事実ではないかもしれないがもちろん妻への愛情の大きさを示すための「ほら」なのだし、だからこそ夫のほら話を妻はいつも優しいまなざしで聞いている(ジェシカ・ラングが控えめだが周りを気遣う女性を好演している。彼女が夫の入っている水風呂に入って寄り添う場面は完璧だし、この映画で繰り返される「水」の主題をさらに豊かなものにしている。)父のフィクションに出てくる登場人物たち、彼らが全くの虚構の存在ではないことは葬式の場面でわかるが、いわば彼らにとって最もふさわしい形でほら話の中で虚構化されている。彼の大きさに包まれた人たちがたくさんいたのだ。だから彼は英語の諺である「小さな池の中の大魚」ではなく、映画のタイトルどうり自然の川を泳ぐ真の大魚なのであり、息子は無意識のうちにその大きさを抑圧と感じているのだ。(ほとんどの場面でベッドに横になりながらも、アルバート・フィニーはその人物の大きさを感じさせる演技を見せていて、彼をとらえるカメラもすばらしい。)

 父親の浮気の証拠を見つけようとする息子は、事実にこだわっているように見えて、実際には父親を卑小な存在にして抑圧から逃れたいだけであり、父親よりも低いレベルの想像に取り付かれているだけなのだが、そんな卑小な想像は父親のほら話の中の真実に打ち負かされることになる。(その回想場面ででてくるヘレム・ボナム=カーターは妻とはまた違う色気を漂わせていて、ほら話の中で魔女として出てくるのが不思議ではないし、その魔女姿がまた魅力的である。)父親のほら話には感情の嘘がない。息子に彼が言ったように、ある意味彼はいつも自分自身の感情の真実を息子に語り続けてきたのだ。

 しかし、父子が和解する瞬間がやってくる。息子が「ほら話」を語り始める病室の場面と、それに続く川沿いの場面(彼のほら話の最後にこれほどふさわしい場面はないだろう)。そしてその話を父親が受け入れる。現実の世界の中でフィクションが和解という奇跡を起こし輝く美しい瞬間を観客は目にする。どんな小難しい文学論やフィクション論よりもこの場面こそがフィクションのもつ力を称揚している。

 あらゆる場面にすばらしい構図の印象的な場面がある。そしてほら話と現実の場面に、ほぼ同じような演出、撮影をしていることが、感動をさらに大きなものにしている。