スクール・オブ・ロック

 冒頭、バンドの演奏シーンで、主人公は明らかにバンドの中で浮いていて、観客からは冷たい視線を浴びている。家に帰れば、かつての音楽仲間とその恋人に疎まれ、ここでも彼には納まるべき居場所がない。結局彼は偽教師として学校で働くことになるが、ここでも最初彼は教室の中で浮いている。浮いているというのはつまり、彼のオーバーアクションが周りの人間の共感的なリアクションを引き出すことがないということである。印象的なシーンとして、彼が自分の自作した歌を効果音つきで教室で発表する長廻しの場面がある。彼のアップで始まり、徐々に引いて教室全体を写すこの場面で彼の独演会はほとんど何のリアクションも引き起こさず、単調な制服の背中が並んで彼の動きを見つめているだけである。この空間に動きを生み出すのに必要なのは何か。彼が楽器をせっせと教室に運び入れるシーンはおかしいが、それだけでは足りない。生徒たちに役割を割り振り始めたあたりから、生徒個人の顔が画面に見え始め、主人公と彼らとのやり取りが教室を、そして映画を活気付け始める。自分が独占していた様々な役割、リードギターや作曲、マネージャーなどを生徒たちに譲り渡していくたびに、生徒たちのキャラの輪郭がはっきりしてくる。主人公の白煙を上げるボロ自動車がライブハウスと学校を往復するたびに、この動きは増幅していき、教室にとどまらず、校長や保護者まで巻き込んで、最後のバンドバトルで頂点を迎える。ただ、その前にこのバンドが完成するために必要な手続きがある。彼が教師の仮面を脱ぎ、主従関係が廃棄された時、初めて生徒たちがアクションを起こし、それに主人公が引っ張られることになる。スターとそのバックバンドのようだった集団が、ここで本当の意味でのバンドとして登場する。

 この映画のストーリーはバンドが曲を作っていくプロセスに似ている。最初一つの楽器の音に過ぎなかったものが、別の楽器がその音に対してリアクションを返し、さらにまた別の楽器が加わることで、バンドらしい音に近づいていく。そして最初大きな音で他の楽器の音を抑圧していたメインパートの楽器は、他の楽器の音を聞き、他の音と響きあうことに喜びを見出し始め、そして曲は完成する。そういうバンド・スピリットを伝えてくれるエンドロールもうれしい。