Casshern

 話題になっている割に上映館が少ないので混雑してました。初監督作品だけあって言いたいことを全部つめこみました、という感じなんですが、物語の中にうまく収まっていないという印象を受けました。科学、医学の発達と倫理、環境汚染、国際紛争、テロの撲滅、民族、戦争の大義、父子関係、母子関係、愛・・・。これらすべてを一つの物語につめこんでいるんですが、語りの技法が主題の重さについていっていないんではないでしょうか。絶え間なく鳴っている音楽や加工された映像のかもし出す雰囲気でなんとかくシーンがつながっているんですが、近未来フィクションの場合どうしても世界設定についての説明をうまくしないと観客がその世界に入っていきにくいと思います。

 いい俳優も出ているのだから登場人物のキャラクターももう少し丁寧に見せてくれたらいいのに、とも思いました。仲のいい恋人、幸せな生活をしていた家族、とかありきたりのイメージをきれいな映像で少し見せるだけですぐに別のシーンに行ってしまうので、表面だけはきらきら輝いている登場人物はみな平板な感じがしてしまいます。アメコミのヒーローが活躍するハリウッド映画ですらヒーローが普段どんな日常生活を送っているとか意外に地味なシーンがあって、観客はゆっくりとその主人公の存在になじんでいくものですが、そういう演出の配慮がほとんどなかったように思います。

 憎しみ、暴力の連鎖という監督が一番強調したい主題は確かに印象に残りました。予告編で出ていたキャシャーンとロボットとの戦闘シーンでも、戦場で人間性を失って銃を乱射する鉄也のシーンを差し挟むことで、正義が悪を倒す爽快感ではなく大義のない戦争に近いものになっています。このシーンは森の中での徹夜とルナの会話シーンやに引き継がれることでなおさら否定的にとらえられていくことになります。鉄也が兵士時代に第七管区で行った行為、新造人間と第七管区の関係が明らかになるにつれ、主人公が根拠にするべき正義は崩壊していきます。主人公のコスチュームの中で、アニメ版と違うのはヘルメットをつけていないことですが、ヘルメットは前半ルナの父の研究所のシーンでアップで写されています。ところがこの正義の使者にふさわしい立派なヘルメットは鉄也がかぶる前に壊れてしまいます。原作アニメと映画との違いを示す象徴的なシーンだと思いました。

 ブライキングの演説も高揚感のあるシーンですが、彼がよりどころとしている人間と新造人間の区別は最後に瓦解してしまいます。戦う根拠がことごとく失われていくなか、映画は最後どこにたどり着くかというと・・・まあ、一言でいうと愛と許しっていう解釈でいいんでしょうか?最後の登場人物たちが幸せそうにしている回想シーンも、それぞれのキャラがあまり深く描かれていなかっただけに、それなりに叙情的ではあるけれどPVにでてくるようなきれいなイメージでしかなかったように思います。(あそこだけ近未来じゃないみたいでしたね、あるいは最後の光(魂?)が行き着く、争いのないもう一つの世界なんでしょうか)