ランド・オブ・プレンティ


 私たちは訪れたことのない国々について、ある定まったイメージを持っている。そのイメージの形成に関して、繰り返し流されるテレビの映像の影響は大きい。イスラエルから一人でやってきた少女ラナ(ミシェル・ウィリアムズ)は、らくだに乗ったことあるか、と聞かれる。ベトナム戦争による後遺症で苦しみ、今でも悪夢にうなされる男ポール(ジョン・ディール)は、9.11のタワーが崩壊する映像に大きなショックを受ける。それ以後、彼にとってアラブ人はみなアメリカを脅かす敵、テロリストであり、彼はその攻撃からアメリカを守るという妄想にとりつかれている。彼の行動は滑稽だが、現在のアメリカ人の意識を極端な形で表現している。少女の目の前で起こった射殺事件が表すように、戦争は国内の富裕層と貧困層の間で日々起きているのだが、テレビで流れる映像は人々の視線を国内の貧困から中東の「敵」との戦争へと誘導する。車に取り付けた監視カメラを通して世界を見ながら、彼は皮肉にも世界を見失っている。一方、豊かな国アメリカのイメージを抱いてやってきた少女はアメリカの貧困世界にすばやく順応し、目の前にいる人々を曇りのない眼で見つめることができる。ロスの貧困地帯、そしてトロナ、アメリカのテレビが(ショッキングな犯罪が起きない限り)素通りする地域を、ヴェンダースのデジタルビデオカメラは映し出す。
 ポールが敵のアジトと思い込んでいる家に踏み込んだとき、もちろんそこに敵などいない。そのときの彼の表情を忘れることができない。敵と味方に明確に分かれているはずの自分の周りの世界が一挙に意味を失い、彼は途方にくれる。「任務」を失った彼に残されたのは、ベトナムの悪夢と後遺症、つまり、アメリカ国家が彼の心と体に残した傷である。しかし、彼の側には姪のラナがいる。彼には国から与えられた「任務」ではなく、家族から委ねられた「責任」がある。
 彼にとって、テロで崩壊したタワーは象徴的な意味を持っている。繰り返し流されたあの映像が、中東の政治と歴史、国内の貧困などを覆い隠し、多くのビルの内の一つであったはずのタワーを攻撃されるアメリカの象徴としてしまう。自らの目でグラウンド・ゼロを見たとき、ポールは違和感を口にする。実際、そこにあるのは「象徴」などではない。象徴的な意味を読み取る代わりにするべきことを、姪のラナが言う。耳を澄まし、被害者の声を感じ取ること。そこから浮かび上がってくるのはおそらく、敵と味方に単純化された世界ではないはずだ。世界とどう向かい合うべきか知っているラナは、しかし難しいことをしているわけではない。中東の映像を見る代わりにノートブックで中東の友人と頻繁に連絡を取り、貧困地域の救貧所に偏見なくすぐ溶け込み、一人の時には音楽に合わせてリズムをとり、夜には自分を生かしてくれるこの世界と神への祈りを欠かさない。旅の途中で彼女がやっていたように、自らの指で作ったフレームで、世界を発見していくこと。指の形を変えただけで、世界は違った姿を現すだろう。