春の雪

春の雪 [DVD]
 冒頭、友人の本多(高岡蒼佑)とともに寝転がっている松枝清顕(妻夫木聡)がその目元に浮かべているのは、周囲に対する優雅で酷薄な無関心の表情である。ヨーロッパ貴族のまねごとに熱心な自分の両親を含む華族社会も、国家神道がもたらす崇拝と熱狂に染まってしまっている同級生たちも、この美しい青年にとって見下すべき存在である。しかし周囲から距離をとることでもたらされる優越感は、現実体験の乏しさという弱点をもっていて、彼の周囲の女性たち、つまり月修寺門跡(若尾文子)、祖母(岸田今日子)、蓼科(大楠道代)、そして2歳年上の綾倉聡子(竹内結子)は意図せず彼に自らの弱さを意識させる。だから転落のきっかけとなる手紙は女性体験をめぐる嘘の手紙なのだ。自分の意識は聡子に縛られてなどいない、という稚拙な虚栄心が彼の転落へのきっかけになる。
 映画と小説はほぼ同じストーリーなのだが、違いは清顕の行動原理である。映画では彼の特異な行動の理由が未熟でひねくれているから、ということになっていて、後半は悲劇であると同時に彼の成長物語でもある。ただ、幼稚な人間のわがままという説明(エンドロールで流れる主題歌の歌詞がその印象を強めてしまっている)では単純すぎて、聡子からの手紙を次々に燃やし破り捨てる彼の優雅な冷酷さの説明としては物足りない。もちろん未熟も理由の一部なのだが、原作では彼の態度は大正初期の社会状況、歴史哲学、政治思想などを通して見られている。後半の彼の変化に関しても、原作では単なる青年の成長ということではなく、皇室の勅許がもたらす「絶対的な不可能性」がきっかけになっている。これは抽象的な概念だけに映像で表すのは難しく、映画では台詞で何度か触れているだけなのだが、原作では明らかに国家と天皇制という政治的な主題が関係している。この主題は聡子の剃髪にも関係していて、神道の中心に天皇という男性がいるとするなら、月修寺は尼寺で、国家の祈願寺としての性格が強い。聡子は宮家に引き出物のように差し出される存在から、尼寺の主になっていく存在に変貌したことになるが、どちらにしても、清顕から見れば破ることが不可能な掟に囲まれた女性ということになる。映画の終盤で清顕の行く手をふさぐ月修寺の巨大な門は、この掟の象徴と言える。不可能性という概念なしに、ひと目会うことに命をかけてもいいという最後の場面の彼の執念を理解することは難しい。
 一方、原作以上に際立った存在感を見せるのが聡子であり、台湾のカメラマン李屏賓が撮る竹内結子の表情は原作の比喩的な描写を超えているとさえ思わせる。例えば、雪見の馬車の中で二人が口づけする場面では、あれほど侮蔑的な態度をとっていた清顕が彼女に口づけするのだが、演出によっては唐突に見えかねない場面である。しかし、朝の雪の照り返しを受けてぼんやりと白く浮かびあがった彼女の顔を見たとき、清顕がそこに吸い寄せられていくことを我々は当然のこととして受け入れる。また、最初の密会の後清顕が手紙を返さないといったときの、敬語を使っておひいさまとしての威厳は保ちながら、内に再会できることに対する情熱を秘めている彼女の眼には、原作の言葉を借りるなら「澄んだ激しい光がよぎって」いて、清顕と同じく我々も「戦慄を覚えるほど」である。