ザ・リング2

 中田秀夫監督ほど周りの期待と本人の資質のずれを感じさせる監督もいないのではないだろうか。彼の他の作品を見ると、彼はなによりもまず女優の表情をとることに執着しているように思える。リングも彼にとっては松嶋菜々子を中心とした母子と夫妻の物語であったはずで、恐怖描写は恐怖や不安の表情を浮かべた女優を撮るための手段にすぎない。これは主演が中谷美紀になった日本版リング2でも同様である。また、監督はこの2本で美人女優である竹内結子深田恭子にあの歪んだ被害者の顔をさせている。仄暗い水の底からでは、母子のメロドラマの側面がさらに強調されており、主人公の母子は幽霊現象におびえるだけでなく、親権をめぐる裁判などで周囲からも孤立している。彼はこの映画で周囲の状況におびえる神経症的な表情を黒木瞳から見事に引き出しているのだが、この映画がホラー映画ファンにとって物足りないものであることは容易に想像できる。
 今までの中田監督の映画を寄せ集めたようなオリジナリティのない脚本で彼が撮ることを引き受けたのは、母子のドラマであることと、主演女優がナオミ・ワッツであることが理由ではないだろうか。彼が本領を発揮しているのは直接観客を驚かすような演出のほうではなく(CGの多用と年齢制限にひっかからないために抑え気味の描写のせいでつまらない)、ナオミ・ワッツが水によってじわじわと追い詰められていく過程の描写である。
 幽霊だけではなく周囲の人々も主人公を追い詰めていく。親子を親身になってサポートする人間はほとんど見当たらず、彼女は虐待する母親と周囲から誤解され、子供から引き離される。また、幽霊が子供にとりついているため、子供はいわば悪魔の子になっており、彼女は自分の子供のなかの幽霊と対決しなければならない。彼女の悲劇的な状況を強調するためには彼女の周囲の人間はもっと彼女を追い詰めるべきであり、幽霊にとりつかれた子供はもっと残酷な行為を行う存在になるべきだ。だが、一般人を冷酷に描くことと子供を残酷に描くことはハリウッド映画にとってはタブーなのだろう。一般人の代理として彼が使ったのは鹿である。母子の車を取り囲んだ鹿の眼、あれは呪われた存在を軽蔑と恐れをもって見つめている眼であり、彼女たちが孤立していることを表している。この親子の孤立は映画の最後まで変わらない。
 ある程度じっくりと女優の表情を捉えようとする演出の呼吸と、瞬間的にびっくりしたい客の期待との間には、あきらかにずれがある。また、CGなどを使った恐怖場面はあまり監督にあっていないような気がする。そこには襲われる人間側の描写が少なく、彼らが追い詰められる空間も十分に描写されていない。ハリウッドの次回作では資質を十分に発揮できるのだろうか。