映画と事件

今、頻繁に映画バトル・ロワイアルの名前がニュースや新聞に登場する。小学生殺人の加害児童が好んで見ていたらしく、これをわかりやすい「原因」にしてしまいたいということらしい。先日までは主婦層も見ていたテレビドラマの影響が語られていたはずだが、こちらの話はあまり見かけなくなった。

映画の内容は、殺すことを大人から命令として「強いられた」中学生たちが互いに殺しあうというものだが、ここから加害児童が「殺したい」という衝動のみを受け取ったとするなら、それは彼女固有の問題だろう。

「殺したいほど腹が立つ」気持ちになったことのある人はかなりいるかもしれないが、そこから実際に「殺す」という行為までには深い溝が存在する。実際、id:tokyocat:20040605にもあるように、その溝を飛び越える人は日本ではむしろ少ない。多くの小学生の中で彼女だけがその溝を飛び越える「衝動」を持ちえた原因を「インターネット」だの「暴力描写」などに求める思考はあまりにもずさんではないだろうか。

今年、犯罪を犯した少年に対して、あえて説明を回避して見つめることに徹した映画を2本見た。「 息子のまなざし」(偽日記 04/06/04参照)と「エレファント」(id:fumiya238:20040501)である。これらの映画は「誰もを納得させようとする善意が見る主体から思考と視線を奪ってしまうことには無自覚な(蓮実重彦のエレファント評より抜粋)」マスコミとは対極にある。もちろん我々の大半は事件の加害者と直接会うことはないのだから、「見て納得したつもり」になる必要はない。我々に必要なのは自分のそばにいる誰か、他と置き換え不可能な存在を理解しようとする視線だろう。