ウォーク・ザ・ライン 君につづく道


 伝記物によくあるように、幼少期の経験が主人公ジョニー・キャッシュホアキン・フェニックス)の人生に大きな影響を与えている。一つはラジオから流れてくるジューン・カーター(リース・ウィザースプーン)の歌声に出会ったこと、もう一つは兄の死である。つまり、彼の人生を破滅寸前まで追い込むトラウマと、歌手になるきっかけになり、後には彼を破滅から救ってくれる救世主との遭遇を同時に体験していたことになる。
 ジョニーに精神的な不安定さを与えているのは、自分は価値のない人間ではないかという思いこみである。父親(ロバート・パトリック)に期待されていた兄が死に、父親から冷たい視線を浴びている自分が生き残ったこと。薬物中毒に陥っているジョニーに向かって父親が言う台詞に何度も繰り返される言葉、それは"Nothing"である。お前のやっていること、お前の存在そのものに何の価値もないという親の言葉が呪いの呪文のように子供にすり込まれ、成長してからも彼はそこから抜け出すことができない。
 しかし、この体験が彼の歌に独特の重みを与えていることは確かで、彼の元には刑務所の囚人たちからのファンレターがたくさん届く。つまり、自分には何の価値もないと人から言われ、自分もそう思いこんでいるような人々の胸に彼の歌声は最もよく響く。刑務所の外まで響くようなビートに乗せて挑発的な歌詞を歌う刑務所ツアーの場面は一番ジョニー・キャッシュらしい場面といえるのではないだろうか。
 ジューン・カーターに対する異常な執着は子供の頃ラジオの前だけが彼の居場所であったこととも無関係ではないだろう。この執着は彼の最初の結婚を破綻にまで追い込むのだが、彼を薬物中毒の破滅から救うのもジューンなのだ。実の親に見放された彼を、他人であるはずのカーター家の人々が看病するというエピソードは、非常に印象に残る。お互いに離婚を経験して子供もいる二人の、友情を通過して結婚に至る大人の恋愛を主演の二人がうまく演じている。

ジャーヘッド

ジャーヘッド-アメリカ海兵隊員の告白
 主人公スオフォード(ジェイク・ギレンホール)が体験するのは敵と直接接触することのない奇妙な戦争である。訓練や上官の扇情的な演説によって殺意を高められた若い海兵隊員たちは、一国も早く銃を撃ち敵を殺したくてたまらない衝動に駆られるが、彼らの周りには砂漠が広がるばかりで銃を撃つ機会など全くない。出口のない衝動はやがて味方や自分自身に向けられはじめ、彼らの精神は変調を来し始める。曹長ジェイミー・フォックス)や仲間同士(ピーター・サースガード、ルーカス・ブラック)のやりとりなどは青春映画らしい楽しさがあるのだが、長すぎる退屈な待機時間の中でそこに狂気が忍び寄っていく様子が丁寧に描写されている。
 戦争が始まっても、彼らは戦況もわからずただ銃撃の中を右往左往するだけである。ようやく前進すると、そこには空爆によって一瞬のうちに黒こげになった敵兵の死体がある。テクノロジーによって支えられた戦争の進行するスピードがあまりに速く、兵士たちはただその後始末をするだけの存在に過ぎない。敵とできるだけ接触を避けるためにとられる手段である空爆は本来味方の被害を少なくするはずだが、皮肉なことにそれは味方への誤爆を生んでしまう。 憎しみや怒りすら発生する余地のない戦争は、まるでプログラムのように自動的に進行していく。
 では、一人も殺すことなく帰還した彼らは、ベトナム帰還兵のような後遺症に苦しめられない幸運な兵士たちといっていいのだろうか。彼らはまた普通の市民として暮らし始める。しかしスオフォードの部屋のテレビには戦争映画がつけっぱなしになっている。海兵隊員の入隊儀式として行われる焼き印が象徴するように、人殺しの訓練を受けた彼らには消えない「戦場」の刻印が押されている。スオフォードが語るように、ライフルの感触が手から消えることはない。

エリ・エリ・レマ・サバクタニ


 何のために生きるのか、という問いは危険な問いである。目の前の目的(end)を見失ったとき、人は人生の最後にやってくるより大きなThe End(終わり)に捕まってしまう。自殺を誘発するレミング病にかかった宮粼あおいがどうせみんな最後には死ぬのに、なぜ今死んではいけないのか、と言うとき、彼女の父親(筒井康隆)のように〜のために生きてくれ、というような人生に目的を求めるような思考で説得することはできない。人生を「線」として捉え、これから先の未来に意味や目的を見つけようとすると、とたんに死の影に捉えられ、すべての目的endは死The Endの前に無効になってしまう。人生を死の地点から振り返って眺めること、人生を「線」として捉えること自体をやめることが必要なのだ。
 音楽もまた、時間に沿って進む以上、線として考えられる。私たちはメロディラインをたどるような音楽の聴き方に慣れている。しかし、浅野忠信中原昌也が作り出すのは「線」から解放された多種多様な音の響きであり、私たちは音の渦の中に身を置くことになる。板きれにひもを一本張っただけの手作りの原始的な楽器が、そして浅野忠信がもつギターの弦が、アンプにつながれることによって、五線譜から解放されたすさまじいノイズの渦を生み出す。線から渦を生み出し、線を無効にすること。これを可能にしているのは、スローライフ、アンプラグドのような退行的な自然志向ではなく、電子楽器とコンピューターである。採集された自然音もコンピューターに取り込まれ加工され、暴力的な音の渦へと変化する。宮粼あおいに必要なのは、先の未来に目的を見いだすことをいったんやめるために目隠しをして、音の渦の真ん中に身を置くことである。
 ただし、彼の演奏がレミング病を直す力があるかどうかは、あいまいなままになっている。むしろ、病気という問題とその解決という、論理的、線的思考が無効になっているというべきだろうか。レミング病による自殺と自由意志による自殺を区別する手段はない。そして、演奏場面の後には探偵(戸田昌宏)の自殺場面がある。ただ、この自殺には、意味や目的を求めたあげく絶望して(何故に我を見捨てたもうや)自殺するというような、暗く悲劇的な色彩はいっさいない。
 はじめから意味を求め絶望する病から自由な人もいる。岡田茉莉子が経営するレストランの壁にはたくさんの時計があるが、みんな違う時間を指している。時間、進歩、発展というという「線」から解放された場所がこのレストランであり、浅野と中原の憩いの場所になっている。彼女は死なんて考えたこともない、と笑ってみせるような、健康的な女性であり、今日うまくスープが作れたことに喜びを見いだす女性である。先回りして死の地点からすべてを見るのではなく、いまここにいることの喜びに身をゆだねることを、岡田茉莉子は自然体で表現している。
 中原が死後も浅野の演奏を通して、また骨壺とともに備えられたモニターを通して「再生」するように、死はすべての意味を決める最終地点ではなく、私たちはそこから自由に回帰することができる。これほど人生に対して肯定的な気持ちになれる映画はあまりない。

ミュンヘン


 アヴナー(エリック・バナ)が情報屋ルイ(マチュー・アマルリック)を待っている時、目の前のショーウインドウにはピカピカのシステムキッチンがある。ガラス一枚を隔てて目の前にあるのに、そこには決して超えられない距離があるように感じる。アブナーの母親は彼を一人で育てられないので農村共同体キブツに子供を預けた。それはいわば家庭から引き離され捨てられるという体験である。結婚して子供が生まれようというとき、今度は国からの命令で彼は家庭から引き離されることになる。共同体によって育てられた彼にとって国がゆりかごであり、今まで警護してきた女性首相(リン・コーエン)の言葉に彼は逆らうことができない。任務の途中で、いくつかの印象深い料理場面がある。母親に頼れなかったためか、彼は非常に料理が上手で、暗殺メンバーたち(ダニエル・クレイグキアラン・ハインズマチュー・カソヴィッツ、ハンス・シジュラー)にも料理を振舞うのだが、この家庭的な雰囲気は任務を重ねるごとにとげとげしいものに変わっていく。ルイに導かれて情報屋の黒幕パパ(ミシェル・ロンズデール)のところに行くと、そこには自然に囲まれた大家族の食卓がある。牧歌的な食卓は血なまぐさい情報のやりとりによって支えられており、どの政府にも所属しないことで自分たちの居場所を確保している彼らは、自分たちを守るためなら今歓待しているアブナーの情報さえ売るだろう。爆弾を恐れてベッドに腰を下ろすことさえできない彼には安住できる場所がない。ニューヨークの妻(アイェレット・ゾラー)のもとに戻っても、命を狙われる恐怖から逃れることはできない。政府のさらなる命令を断った彼にとって、敵は自国の政府かもしれないのだから。
 皮肉なことに、標的となるパレスチナ人は、まさに自分たちの居場所を確保するためにテロ行為を行っている。たまたま同室になったパレスチナの若いテロリスト、あるいは暗殺される直前にバルコニーで言葉を交わすパレスチナ人、どちらの場面も政治がなければ共存できる可能性を感じさせる場面なのだが、政治と民族意識がそれを許さない。
 暗殺とは自分の存在を知られることなく殺害することだが、彼らはもともとその道のプロではない。だからこそ、危なっかしい手作りの爆弾や最初に殺す場面の手の震えなど、暗殺場面には他のスパイ映画にはない緊張感がみなぎっている。また、最初は躊躇を感じていた彼らが、仲間の殺しに関わった女性を殺す場面では、命乞いする相手の前で無表情に武器を組み立てる。自分の子供の声を聞いて涙を流していた男のこの変わりようが不気味である。また、不可視の存在であったはずの彼らが敵に命を狙われ始めるときの緊張感もすさまじい。周りのあらゆる視線、あらゆる物が殺意を帯びているように思えるのだ。
 任務の発端となるミュンヘンオリンピックのテロは映画の冒頭に出てくるが、殺害場面はそこでは出てこない。虐殺場面はアブナーの意識に刷り込まれた映像としてフラッシュバックで出てくる。自分たちは狙われているというこの刷り込まれた恐怖感が非人間的な任務遂行を支えている。もちろん、このような強迫観念から逃れることは難しいことを私たちは知っている。私たち日本人もまた、この強迫観念に苦しんでいるのだから。

オリバー・ツイスト


 セットや衣装によって再現されたヴィクトリア朝ロンドンの猥雑な雰囲気は十分楽しめる。表通りから狭い路地裏に入るにつれ、汚れて荒れた感じになっていく。
 ただ、映画自体は淡々と進んでいく感じで、躍動感を感じるような見せ場が少ないように感じるのは、主人公オリバー(バーニー・クラーク)のやや受動的なキャラクターのためだろうか。彼はトム・ソーヤのように自分から行動するというより、やむなく悪の世界に巻き込まれていく少年である。不幸に耐え、悪の中に身をおきながらも純粋さを失わないところが彼の長所なのだが、これを映像で表現するのは案外難しいかもしれない。ドジャー(ハリー・イーデン)のようなすりの少年たちのほうが画面上では躍動している。
 オリバーが犯罪組織の一員になってしまうまでのプロセスには救貧院など多くの人間がかかわっている。彼らの多くは残忍な犯罪者ではないが、彼ら一人一人の小さな不親切、小さな無慈悲、小さな悪徳の連鎖が、結果的に一人の少年をロンドンの道端で餓死寸前の状態に追いやってしまう。特に風刺的に描かれているのはもちろん救貧院や警察、裁判所などの権力にかかわる人たちの無責任である。オリバーに残された場所はもはや路地裏の悪の世界しかない。
 悪の世界にいる人々の描写の多様さは原作の大きな魅力だが、映画でも個性的な役者たちが演じている。ナンシー(リアン・ロウ)のように良心を残している者から最後の一線を越え殺人を犯してしまうサイクス(ジェイミー・フォアマン)まで、現実的で人間的な犯罪者たちが登場する。その中で最も印象に残るのはやはりフェイギン(ベン・キングズレー)だろう。オリバーの傷の手当をしてやりながらもオリバーが殺されるのを止めてやろうとは思わない、自分の手で人を殺すことはできないが自分を守るために他人を密告して死に追いやることはできる、この奇妙な男は殺人犯よりも強い印象を残す。彼のずるさ、弱さは誰もがもっているものであり、だから彼の死刑前夜の錯乱した様子には心を動かされる。公開処刑という制度に反対していたディケンズの描写と同じように、この場面で絞首台は黒々としていて、これもまた一つの悪であるように見える。

フライトプラン


 題名の「プラン」はある犯罪計画を指しているのだが、ここに本格的なミステリーのようなリアリティを求める人はがっかりするかもしれない。これは母親(ジョディ・フォスター)が娘(マーリーン・ローストン)を探し出すという物語のための設定にすぎないので、この映画の見所は謎解きや犯罪そのものにあるわけではない。
 飛行中の飛行機内は密室だが、この密室という設定はミステリーの面白さをもたらすためにあるわけではない。二階建ての巨大ジェット機内は一つの社会であり、機内で起こる出来事に対する乗客たちの反応は、欧米人一般の反応と同じである。たとえば、主人公の証言のせいで、最初にアラブ人が疑われる。他の乗客たちはありそうなことだとすぐに納得し始める(ちなみにこのエピソードは最後の和解の場面を見た後でも後味が悪かったが・・・)。うるさい子供たちは他の大多数の乗客や乗務員にとって休息を妨げるわずらわしい存在であり、親以外に子供を保護者的な眼差しでみつめるものなどこの小さな「社会」の中には存在しない。あとで犯人が言うように、誰もジュリアのことなど気にしていない。もちろん、飛行機内で主人公の娘を見たものが誰もいないという設定に、リアリティのなさを指摘することはできるのだが、「社会」のなかでこのようなことがよく起こっていることを私たちは新聞などで知っている。
 主人公である母親のヒステリックな反応に戸惑う人がいるかもしれない。ただ、母一人子一人の家庭では、子供が親に依存しているだけではなく親も子供に依存している。子供がいなくなることは自分が独りぼっちになることを意味しており、最初に空港で娘の姿を見失ったときの母親の狼狽振りから、娘が彼女にとって唯一の心の支えであることがわかる。アラブ人がテロリストのレッテルを貼られたように、女性は精神異常のレッテルを貼られる。いったんそうなれば、彼女に味方するものはこの雲の上の社会の中にはいない。全くジャンルの違う映画だがダークウォーターでも孤立無援の母子家庭が登場していたことを思い出す。二つの作品に共通する、母子家庭の周りの無関心や無責任の描写は現実を反映しているのだろうか。

レジェンド・オブ・ゾロ


 ヒーローも悪役も冒険活劇のパターン通りなんだけれど、そこが楽しい。スパニッシュギターの音とともにゾロを演じるアントニオ・バンデラスが現れると、民衆(ヒスパニック系)はみんな拍手する。悪役は顔に傷のあるワイルド系と何かをたくらんでいるクール系の二種類ちゃんと用意されていて、彼らは民衆の敵であり、アメリカの敵である。彼らの戦いはリアリズムではありえないようなもの(馬で汽車の上に飛び乗ったりする)だけれど、バンデラスとお茶目な黒馬トルネードのコンビなら許せてしまう。
 さらに今回は家庭内コメディの要素もあって、妻と子の活躍も楽しい。ゾロも家庭に戻れば家族サービスの足りない夫、父であり、妻や子に文句を言われて困ってしまうし、妻が他の男といるのを見れば、やけになって泥酔してしまう。妻エレナ役のキャサリン・ゼタ=ジョーンズはバンデラスとの離婚騒動を楽しそうに演じていて、悪役を蹴っ飛ばすときの表情とか結構迫力がある。父親そっくりのアクションで意地悪な先生をやっつけてしまう子供ホアキンアドリアンアロンソ)の活躍も見所で、最後は父親の馬に乗って颯爽と登場する。
 セクシーなバンデラスだけれど、今回は自分の周りに女たちが寄ってくるわけではなく、召使に裸を見られるとおどおどするし、妻に嫉妬して酔いつぶれてしまい、子供にも愛想をつかされているお父さんである。ゼタ=ジョーンズもそうだけれど、セクシーなのにコメディも演じられる俳優というのは映画を楽しいものにしてくれる。